恋愛生活習慣病

act.2

「うーん。やっぱり足りないかなあ」

もらったばかりの給料明細書をみていたら溜息が出た。
一応技術職なので、割といいお給料とは思うけど、夜勤がないから病院勤めよりは少ない。

「何か欲しい物でもあるんですか?」

「うん、ヒモ。ヒモを養うには稼ぎが足りないかなあと思って」

「ブッ」

お昼休憩が一緒になった同僚のエリちゃんが飲んでいたお茶を噴き出して咳き込んだ。
あららー。

「エリちゃん、大丈夫?」

ティッシュの箱を差し出しながら飛び散ったお茶を拭いていると、けほ、と詰まらせながら「大丈夫じゃないですよ」と涙目で睨まれた。

「李紅さんが変なこと言うから。ヒモってあれですよね?男の」

「うん、そのヒモ。相手はまだいないからこれから探すんだけどさ」

「…よかった、へんなホストにでも嵌ったのかと思った…李紅さん、ツッコミどころはいろいろあるんですけど、ヒモ養わなくても自分が嫁に行けばいいんじゃないですか?」

「いやー。それは無理かなと思って」

3年前に振られてから恋愛も婚活もやる気はゼロ。もともと少なかった私の恋愛エネルギーはすでに枯渇している。
心の潤いは漫画やドラマや通りすがりのイケメンで妄想が満たされるからそれで満足だし。

「家事して癒してくれる存在が欲しい。自分が嫁に行くのは面倒くさい」

そう、面倒くさい。身も蓋もないけどそれに尽きる。
今のマイペースな生活が身に沁みすぎて崩したくない。
誰かと生活してその人のために早起きしてご飯作ったりパンツ洗ったり……うわ、したくない。

げんなりしてそう言うと、エリちゃんは「えー、好きな人のために何かするって嬉しくないですか?」と実に女の子なことを言った。
うん。こういう子が結婚できる子なんだよ。
家事ができないわけじゃないけど、元来マメじゃない私は好んでしたくはない。
休日に大掃除したり、おかずの作り置きを休日にやるような人って本気で尊敬する。

「自分のことも世話してもらいたいのに、他人のお世話なんてできない」

「……まあ仕事で疲れてるとあたしもそう思いますけど」

ダメ人間発言をフォローしてくれるエリちゃんはとってもいい子だ。
可愛いし細いし。……エリちゃん見てるといろいろ反省させられるなあ。反省するだけで終わってるけど。

「でも李紅さん、それなら家事代行とペットで解決するんじゃないですか?」

「うん、それは考えた。家事代行はいいんだけどペットはねー。ペットって小さい子ども並みに世話が必要だからさ。私、実家で犬も猫も飼ってたから大変さは知ってんの」

「あー、そうか」

「だから家事ができるヒモが理想的かと。自分の世話かつ私の世話をして癒してくれる人。恋愛感情はなくていいの。付き合うのは面倒くさいし。ビジネスで私に尽くしてくれれば良し」

「そう言われるとそうですね。体も慰めてくれるし恋愛のいいとこどりできていいかも」

「体?」

あ、それは考えてなかった。でもそうか、そういう利用効果もあるのか。H方面は淡泊だから思いつかなかった。アレはしなくてもいいけど、たまに抱きしめてくれたり、頭ぽんぽんしてくれるのは嬉しいかも。

「素敵なヒモが見つかるといいですねー」

「うん。そのためにはしっかり稼がなきゃね」

ヒモを養うだけの経済力が必要。転職するかなあ、なんて考えながらペットボトルのお茶を飲んでいると、内線で院長から呼び出された。



「君みたいなメタボな子に保健指導されても聞く気になれないというご意見を頂いてね」

口ひげが似合うダンディな院長が渋い表情で口にしているのは患者さんからのクレーム。
どうやらぽっちゃりな私に生活習慣予防の保健指導を受けた方が「デブのくせに何を偉そうに」と気分を害されたらしい。

「はあ……すみません」

「鈴木さん、君、BMIいくつ?」

BMI(ボディー・マス・インデックス)は体格指数のこと。
体重を身長の二乗したもので割ったもので、体重と身長の関係から人の肥満度を示したものだ。
日本では22を標準、25以上を肥満としている。ちなみに健康を維持しつつ可愛く見える美容体重は20といわれている。
肥満は万病のもとなので、生活習慣病の保健指導でよく使われる指数なんだけど。

「に、24くらい、です……」

正確に言うと24.9だ。しかしなんとなくそこは伏せておく。

参考までに言うと、身長160センチの女性でBMI22は体重で表すと56.32キロ。ちょっとふっくら気味くらいが健康とされているらしい。
BMI値がほぼ25の私は要するに肥満に近い。食べ過ぎた日は軽く25を超えてると思う。
健康指導する立場の医療従事者としてマズイ数値と思われる。内臓脂肪は結構あるだろうし血液検査の脂質の値は標準値ではあるけど、上の方。このままだとメタボリックシンドロームになる日はそう遠くはない。って分かってはいるんですが。

院長は「24ねえ…」とため息を吐いて沈黙してしまった。
……どうやら呆れてるご様子。すみません、自己管理ができてませんで。しかもちょっと数字ごまかしてます。

「君、ここ1年ですくすくと育っちゃったんだね……」

「はい……食事が美味しくて」

見て見ぬふりをしてきたけど、この1年で15キロくらい太ってる。……妊婦さんでもアウトな体重増加だ。
院長は腕を組んで上を向いたり下を向いたりして唸っている。
デスクトップの画面に映っているのは私の履歴書。
ヤバい。
院長が何か悩んでる。私の履歴書にそんな悩むような項目はないはず。
私が太ったことと関係してる?
なんだろう。あまりいい話じゃなさそう。

「鈴木さん」

「はい」

時間にして数十秒だろうけど院長が口を開くまでの緊張感が半端なかった。わあ、変な汗出てきた。

「うちのクリニックは6階にあるフィットネスジムと経営母体が同じ医療法人だって知ってるよね」

「はい」

私の勤めるクリニックはこのビルの5階。6階にフィットネスジムが入っている。
同じ系列なので、ジムとクリニックでカルテを共有し、体力作りと健康管理の両面からサポートできるのがウリだ。
一流のビジネスマンたるもの健康と外見に気を付けるのは基本らしく、このビルに勤めるエリート様たちにご好評を頂いている。
……そんな自己に厳しいビジネスマンの不評を買ってしまったメタボ手前の私。
ちらりとパソコン画面の履歴書に目をやった院長は、もう一度ため息を吐いて私に向き直った。

「鈴木さん、ヨガインストラクターの資格を持ってるね」

「はあ。まあ一応」

紙切れ同然となっている資格ですが無駄に持っている。

「ジムとクリニック共同でヨガを使った新しいプログラムの企画があるんだけど」

「はい」

「鈴木さん、それに参加して。しばらくフィットネスに勤務して、ついでにダイエットもしてきなさい」

……は?

6階のフィットネスはお客様にも従業員にも厳しいことで有名だ。
確実な結果をお約束しますと謳っているだけあって、妥協は一切ないらしい。
それをこんな、だらしない、身も心もゆるゆるな私が、あのフィットネスに勤務って……無理だろ。

「あの…お断、」

「成功ボーナスあるから」

断りを入れようとした耳に魅力的な単語が飛び込んできた。ボーナス。
院長の口から出た金額は給料の約3か月分。けっこうな金額である。あら。
一瞬喜びかけて、ふと気づいた。

これ、もしかして……テストされてるんではない!?

業務命令に従わない、とか。
保健指導をする立場なのに自己管理能力が低い、とか。
クレーム受けてるから痩せるまで保健指導できないだろうし、これ断ったら私……ヤバいんじゃないだろうか。
このクリニックは労働条件もいいし、給料も悪くない。場所も人気スポットだし、私がクビになってもすぐに後が見つかりそうだ。

「このプロジェクトは役員たちも期待しているんだ。体とメンタル、両方のケア管理をしたいというニーズが高まっているからね。いずれは研修型の企業出張サービスとして展開を考えているんだ。それを踏まえてモニタリングして欲しい。その結果企業から研修希望の要望が3件以上あったら、成功ボーナスもあるよ」

「はい……」

「でもあまりいい結果が出なかったら」

「出なかったら?」

思わず握りこぶしで身を乗り出してしまう。院長は必死の形相をした私に引きつった愛想笑いを返してきた。

「い、いや、そんなに怖い顔しなくても。まあ後のことは後で考えればいいから。で、どうする?やる?やらない?」

「やります」

思わず、そう返事をしていた。

今、クビになるのは困る。
一人暮らしだし貯金もないし、転職はちょっと考えてたけどまだ本気じゃないし、次の職場が決まってからでないと困る。
資格があるとはいえ、30女をいい条件で雇ってくれる場所がすぐに見つかるとは限らない。
ヒモを養う前に自分を養わないと!
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