恋愛生活習慣病

act.6

このビル内に飲食店は幾つも入っているけど、早朝のこの時間に営業しているお店はあまりないと思う。
たぶん2階のコーヒー専門店か、少し歩くけどビルの裏手のガーデン沿いにあるカフェくらい。
ビルを出れば周囲に喫茶店はあるけど、わざわざそこまでは行かないだろうから2階でコーヒーかな、と思ってたらなぜか45階に連れて行かれた。


「……ここって」


世界各地に展開するラグジュアリーホテルのCitron Oriental TOKYOではないですか。何しに来た。


「この辺りで朝食が摂れる店はここしか知らなくて。すみません」


はい?朝食ここで食べるつもりなの?
いや、朝食食べれる店は他にもあるよ。セレブか。このイケメンはセレブなのか。
世界的なコンサル企業のエリートはこんな所で朝ごはん食べてるのか。

「あの、ここに入るんですか?」

「ここなら和食も洋食も中華もありますよ。気に入りませんか?」

「いえ。気に入るとか気に入らないとかそんなことじゃなくて」


お店なら2階にカフェあるよ!あなたこの前あの店でコーヒー飲んでたよね!とは言えない雰囲気。
この人、マジだ。私コンビニでおにぎりでもいいんですけど、ほんと。


「私、こんな普通の恰好ですし」


まさか高級ホテルで朝食なんて、えらいことになるとは思わないから、私の服装は1900円のニットに同じくファストファッションの店で買ったウエストがゴムになってるスカンツ。職場では制服かジャージだし、だいたいいつもこんな恰好で通勤している。


「可愛いですよ」

ちょっ、また!
そのイケメン眼鏡で「可愛い」とか言われたら血圧上がるし!
うわ、顔が熱い。免疫ないんだから軽く可愛いとか言わないで欲しいんですけど!


「ふ、顔が真っ赤ですよ。可愛いですね」

「かっ、からかわないでください。さ、行きましょう!お腹すきましたね!」

「ふふ、そうですね」


残念な三十路女をからかって何が面白いんだか、氷室さんは機嫌良さそうだ。
ホテルに入ってロビーを横切り、レストランへ。
こんな一流ホテルで食事なんて、大病院の息子と結婚した友人の結婚式依頼だ。
ホテルの朝食ビュッフェかな。美味しそうな料理が並んでいるのが見えてわくわくしてきた。間違いないなく美味しいはず。
……5つ星ホテルの朝食ビュッフェのために財布の中の貴重な諭吉さんが一葉さんにチェンジするだろうってことは考えないことにする。


「おはようございます、氷室様。どうぞこちらへ」


ホテルの人に名乗らなくても名前呼びで出迎えられるなんて、氷室様って常連なの?と驚いていたら、なぜかビュッフェ会場ではなく別室に案内された。

個 室。


「ビュッフェだとゆっくり話せませんから部屋を取りました。こちらで食べましょう」


は?

ゆっくりって、朝食で高級ホテルレストランの個室って、え?あり?
人気女優のスキャンダルに関わる話だから話が漏れないようにここまでするの?
動揺しまくっている私に全く気付いていない氷室様はメニューを差し出してにっこり微笑んだ。


「ここに載っていないものでも何か食べたいものがあったら言ってくださいね。苦手なものは?」

「……甘納豆」

「甘納豆ですね。厨房に伝えましょう」


いえ、わざわざ伝えなくても甘納豆はホテルの朝食には出ないと思います。
流麗な横文字が並ぶメニューの内容は頭に入ってこず、パンとコーヒーの文字だけ認識できたので洋食を選んだ。
なんだかとんでもない状況になってるんですが。朝ごはん食べにきただけなんですけど。

眼下には朝の光に反射する目覚めたばかりの大都会。
今日はすっきりと晴れて遠くには富士山が見える。
そして視線を前に向ければ、艶のある笑みを浮かべた、名前を知ってるくらいの知り合いでもない超絶美形男性。
お食事の前のお飲み物はいかがなさいますか、とウェイターに聞かれ「お水でいいです」と言ったら、お洒落なラベル付きの瓶に入ったミネラルウォーターが出てきた。なんだこの状況。


「急にお誘いして申し訳ありません。一度、鈴木さんとお話したいと思っていたものですから」

「あの、お話って吉瀬ユイカさんの件ですよね?私、誰にも言ってませんし心配しないでください」


てっきり口留め目的のお誘いだろうと思ったから切り出してみたんだけど、氷室様は何の話か分からない様子で眉怪訝そうな顔になった。
少し考えて思い当たったみたいだけど「ああ、あの女のことはどうでもいいです」とあっさり終了。


「え?その話じゃないんですか?」

「そんなどうでもいい女の話より鈴木さんの話をしましょう。そういえば短期間、ジムとクリニックを兼務されていると伺いましたが、いつまでですか?」


いや、どうでもいい女はむしろ私の方だと思うんですが。
え、いいの?私が誰かに言いふらしたらって心配じゃないの?わざわざ個室取ったのってその話するためじゃないの?

……もしかしてあれかな。部外者にあれこれ言われるほうが嫌だから忘れてくれってこと?
わからん。
分からないけど氷室様は吉瀬ユイカの話をする気はなさそうだ。
モヤモヤしながらも、仕方がないから振られた話に返事をした。


「一応3か月と言われているんですけど、企画立案が進んでいないのでもう少し伸びそうです」

「そういえばクリニックとジムの共同企画があると言われていましたね」


ちらっと話しただけなのに覚えてるの!?この人、顔だけじゃなくて記憶力も半端なくいいな!
さすが世界に誇るコンサル会社勤務。頭いいんだろうなあ。


「医学的な要素を入れたヨガプログラムを作ることになって、クリニックからは私が参加するんですけど……実は私のダイエットも兼ねてるんです。保健指導もできないくらい太っちゃったんで」

「ダイエット?必要ないと思いますが」


おーい氷室様?
どこをどう見て必要ないと!?


「鈴木さんはそのままでいいと思います。ふわふわして柔らかそうで。そのままで可愛いですよ」


また出たよ、可愛い。
氷室様から可愛いって言葉、何回も聞いたような気がする。もしかして口癖なの?「かわい~」頻発するJKか。
そして新たに浮かんだ疑惑。

もしかして、デブ専。


「……氷室様は太った女性がタイプですか?」

「いえ、特に体型にこだわりはないです。体型よりも心と体が健康かどうかが重要だと思っています」


そう言って、美しいとしか表現できない微笑を浮かべた。


「そういえば、この前されていたダンス。あれは下半身の血流が良くなりそうですね」


ああ。アレ。
できれば記憶から抹消して欲しいんですが。


「あの時は……本当にお見苦しいものを見せてしまってすみませんでした」

「見苦しいだなんてとんでもない。とても楽しそうな姿に、つい見入ってしまいました」


氷室様。それは見入ったのではなく呆然としたの間違いではないでしょうか。
自分で見てもヤバい姿だったよアレは。


「ちゃんと踊れないとあんなことになるんですけど、あれはコアダンスと言います。ラテンダンスがベースになっていて、踊りながらお腹とウエストを引き締めるんです」

「ダンスエクササイズなのですね。楽しみながら効率的に有酸素運動ができそうですね」


頭の回転が良い人なのだろう、氷室様って話をするのも聞くのも上手。
最初は緊張してしどろもどろだった私だけど、ほんの少ししかない共通の話題を上手く広げてくれる上、知らないことは分かりやすい言葉で説明してくれるので思いのほか会話が楽しい。
丁寧で口調も穏やか。紳士という言葉がぴったり。今までに会ったことない人種。
ハイスペックってこういう人のことを言うんだなあと実感した。
豪華な朝食ももちろん文句なく美味しくてってしまったあああああ!ダイエットしてたんだったあああああ!

いろいろな種類の高級チーズやトロトロ卵のバターたっぷりオムレツ、リンゴのソースのかかった分厚いハムにふわっふわのフレンチトースト、本物のバターの香りがするクロワッサンにカラメルプディングって卵とバターと砂糖どんだけ食べてんだよ!

唖然として口も手も止まってしまっていると、氷室さんが心配そうに「どうかしましたか?」と声を掛けてきた。
ダイエット中なのに、と言いかけてハッとして口を噤む。
だって食事に誘ってくれた人に対してその言葉は失礼だ。食べ過ぎたのは自分のせいなのに。
あああ……サラダを先にいっぱい食べればよかった。なんでこんなに自己管理できないんだろう。


「いえ、なんでもないです。お腹いっぱいになったなあと思って。美味しかったです。とっても」

「そうですね。鈴木さんが美味しそうに召し上がるから、私もいつもより食が進みました」


そう言って氷室さんは目を細めた。
クールな美形の微笑みとか、うわあマジで胃も心も満腹。ごっつあんです!

ふとみると私の手元はパン屑だらけなのに、氷室さんの前は何も落ちていない。
食べ方で育ちが分かると言うけど、本当だなあ。
こんなホテルで朝食摂るような人だけあってナイフとフォークの扱いに慣れてる以前に、所作そのものが美しいんだろう。どこまでも完璧なひとだ。住む世界が違う。


結局なんでご飯に誘われたのか不明だけど、イケメンの気まぐれと神様からのご褒美と思うことにした。
それともタコ踊りを晒したご褒美でしょうか。
恥はかいたけど。記憶を抹消したいくらい恥ずかしい黒歴史だけど氷室様は気にしてなさそうでよかった。

こんなことは二度とないだろうと今日という日の幸運を心のメモリーに刻んだのだけど。
なぜかその日を境に、氷室様に食事に誘われるようになった。
< 6 / 29 >

この作品をシェア

pagetop