栄光よ明日へ

3

私は彼を部屋に招いた。そして、冷蔵庫の中から飲みかけのバーボンを手に取って尋ねた。
「飲む?」
ジャン・ダンテは頷いた。
「ああ」
「散らかってて悪いね。適当に座って」
私はバーボンをコップに注ぐと、ジャン・ダンテの元へ持って行った。彼はベッドの上に腰を降ろして、私からコップを受け取った。
「なかなか味わい深い部屋だね」
彼は、部屋を見ながらそう言った。
「女の子らしい想像でもしてた?」
「いや、全く。でも、君らしい」
彼はバーボンを一口含んだ。私はボトルに直で口つけて飲んだ。ジャン・ダンテは壁に貼ってある、一枚のポスターに目をやった。
「彼のこと、とっても好きなんだね」
「ああ、彼は私の神様だよ」
「どんなところが好きなんだ?」
「私を音楽で度に連れ去ってくれるところ。この歌知ってる?栄光よ明日へ」
「もちろん。あの歌は最高だ」
「私も彼の書いた曲の中で一番好きなの」
「どうして、彼のことを好きになったんだ?」
「私は、見ての通り、こんなナリだから、両親は構ってくれなかった。両親は妹の事ばかり可愛がってね。クソみたいな環境で育った」

私は貧しい家に産まれた。父親はギターや酒を買う為に借金し、母親はそんな父親に毎日ヒステリックに怒鳴り散らした。母親は世間体を気にする性格で、私を過保護に、しかし一方で無関心に育てた。子供心に愛情は余り感じられなかった。二歳違いの妹は愛嬌よく母には気に入られ、おねだりの報酬にブランドの洋服を買って貰っていた。私は密かに羨ましかった。
母親を憎んでいた。思えば、幼い頃、母の気まぐれで、まだ小さかったお腹を思い切り踏みつけられた時から、もう母から愛情は感じてなかったのかもしれない。それとも、幽霊が怖くて泣いていた3歳の頃に、うるさいと怒鳴られた事が原因かも。どこがきっかけだかはわからない。私はあまり笑わなくなり、母親からは気持ち悪がられた。私は暗くなり、自己主張するのが怖くなり、小学校でも中学校でも苛められた。
私は自殺を考えた。もう嫌になって、家から出て行った夜に、自殺の場所を探しに出かけた。なるべく他人に見つからない場所。私は、二駅くらい歩くと、疲れて路上に座り込んだ。

だけど、そんな愚かな私に幸か不幸か、奇跡が訪れた。乾いた大地に雨が降るような。いや、あれは豪雨だった。私の心はびしょ濡れになった。ジャン・ダンテが歌いかけてきた。
こんな衝動は初めてだ。どこからか聴こえてきた彼の歌声に私は夢中で耳を澄ました。

グッデイ 心配ごとなんてなくしちまおう
みんな明日をしんじてる
栄光は明日へ
それは確かに 君は奇跡の一人だから

彼の歌は直接に心臓に送り込んでくる電気ショックみたいに、さっきまで死んでいた私の心を大きく揺さぶった。
音楽が止むと、私は神様の顔が見たくなった。路上から立ち上がると、傍を通り過ぎた男にこえをかけた。
「ねえ、今の音楽って、何だか分かる?」
「ああ、今流れてた曲かい?有名な曲だよ。ブルックボーイの栄光よ明日へだよ。随分古い曲だから、若い子は知らないね」
「ありがとう。いい曲だね」

私は新しく生まれ変わったように、走った。初めて人生に光がさし、景色は灰色から虹色に変わった。私は家に帰ってすぐにブルックボーイを調べた。四人組のロックバンドで、古めかしい曲をつくっている。ギターのジョーンズは、無口でこだわりの強い男。ベースのマーティンは、真面目でインテリっぽい。ドラムのステアはやんちゃで子供のよう。そしてボーカル、ジャン・ダンテは誰よりも激しい情熱と孤独な繊細さがあった。そして、ジャン・ダンテは既にこの世から去っていた。
神様に会えないと知り、私は一晩中泣き暮れた。だけど、私は永遠にこの音楽と共に生きようと決めた。ジャン・ダンテと。

ベッドの上に座る彼の手の中のバーボンは、ほとんど減っていなかった。きっと、あそこの店で飲みすぎたせいだろう。私も酔って、頭は痛いし部屋の中を飛んでるようだった。突然現れたジャン・ダンテに似た男は、帰る気などさらさらなかった。私を抱きたいっていうのが分かった。私はコップをサイドテーブルに置いて、彼と正面を向くように、彼の膝の上に座りながら、首に腕を回した。
「おいおい、俺は神様じゃないぜ。そんな事されたら普通に燃えてくる」
「知ってる。だから、やろう」
唇を重ねた。酒の効果か、全身が熱くなった。彼の体も炎みたいに熱かった。二人は互いの熱を貪りあった。
彼は、私の体を押し倒し、覆いかぶさって、そのまま服を脱がしながら、自分の服も脱いだ。そうして無言のまま、私の体を啄みはじめた。私の頭の中には、シェリーの顔が思い浮かんでくる。そこで、私はジャン・ダンテの体を押し退けた。
「どうした?」
「別に。やっぱ今日はしたくない」
「何でだよ。何か悪いことしたか?」
「酔ってるからってこんな事したらダメでしょ」
「急にしおらしくなったな。当ててやるよ。彼女のことだろ?言わなきゃバレないって」
彼が再び私へ抱きついてきたけど、私はそれを制して「悪いけど、帰って」と言った。
ジャン・ダンテは説得できないと知ると項垂れて、溜息をついた。私は、彼の上着を彼の体の上に放った。ジャン・ダンテは大人しく上着を着始めた。私は、タバコに火をつけて吸いながら、もう、今日の出来事は忘れようと決めた。
しかし、ジャン・ダンテは、私の方を見て動かずにいた。
「何?見つめたって私の気持ちは変わらないよ」
「セックスで死んだ事は?」
「死んだ事?無いよ。見りゃ分かるだろ」
「死ぬほど気持ちいいってこと」
ジャン・ダンテは私の手を握って開かせた。その上に白い小さな筒状の紙を渡してきた。
「何これ」
ジャン・ダンテは笑った。
「これを飲むと、最高になる。もう今までのセックスが出来なくなるくらい」
その物体が何だか、私は理解した。
「そういうの、したいなら私以外としな」
私はその筒状の紙をジャン・ダンテに返そうとしたが、彼はすかさず言った。
「本当は殺されてみたいんだろ?簡単だ。これを飲めば生きながら死ねる。手首なんか切らなくてもいい。そう、初めて聞いたブルックボーイの栄光よ明日への衝撃が、また味わえる」
私の脳は身勝手に想像した。あの路上で死にそうになりながら生きていた私に、音楽で殺して生き返らせてくれたあの感覚。私の体は身勝手に薬を欲し出した。ジャン・ダンテは誘うように、私の瞳を覗きこんだ。私の神様が。
「また、殺してくれる?」
私は言った。ジャン・ダンテは頷いた。
「もちろん」
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