ドストライクの男
それにしても、と小鳥はベリ子の言葉を思い出し、独り言ちる。
「いつまで経っても、52Fに関する噂は後を絶たないわね」
ベリ子は小鳥より一つ上の二十歳。B.C. Building Inc.に勤め九か月が経つ。
ハーフで見た目派手そうに見えるが、仕事に関して言えば真面目だ。
不愛想で不思議系宇宙人の小鳥にも、呆気らかんと接する奇特な女性だが、如何せんお喋り好きなのが玉に瑕。
そんな彼女の将来の夢は『玉の輿』だそうだ。
で、もっぱらの関心事が52Fの住人のこと。
口を開けば、「何処かの財閥イケメン次期総帥が住んでいるみたい」とか、「何処ぞの社長が購入したらしい」とか……全くトンチンカンの噂話を、さも真実っぽく話して聞かせる。
その都度、そこに住む当事者の小鳥は、如何ともし難い思いに駆られる。
蓋を開ければ何てことはない。ビルのオーナー桜木三日月の自宅なだけだ。
「やっぱりこのエレベーター……だろうな」
元凶を見回し苦笑する。
そして、この元凶が、小鳥のもう一つの秘密だ。
52Fへの唯一の手段と思われている、誰もが知りたがっている、シークレット・エレベーター。
秘密だからこそ、人の好奇心をくすぐるのだろう。
だから皆が知りたがるのだろう、そこに住む人のことを。
小鳥個人としては別段バレても構わないのだが、三日月の娘ということを隠している以上、バレるとややこしいことになるので黙っている。
でも本音を言えば、いちいちB5Fまで下りるとか、本当に面倒だった。
実は小鳥の持つICカードをパネルにかざし暗証番号を打ち込みさえすれば、どのエレベーターでも52Fに行けるのだが、皆にそれを知られるのもはばかられ、結局はこのエレベーターのみで行き来している。
全ては遊び心満杯の三日月の仕業だ。おまけに……。
「小鳥ちゃん、何もないとは思うけど、非常用脱出通路はこことここよ」
三日月は危機管理能力がなせる業というが、いくら何でも52Fから1Fまでの螺旋滑り台とは……。
絶対に使いたくない! と小鳥は非常事態が起こらないよう、心から平和を願い祈っている。
そんなことを考えているとチンとドアが開く。
エレベーターを降り、玄関フロアを彩る真紅の薔薇を少し直し、電子錠の暗証番号を押す。
ピピッと音がし、カチャンと解錠する。
この音と共に小鳥はキャップを脱ぎ、伊達眼鏡を外し、桜木小鳥の姿に戻る。
「今日も良く働いた」
ひと括りにした肩までの髪を解き、洗面所でダボダボのユニフォームと下着を脱ぎ捨て、洗濯機に放り込み、ボタンを押す。
「ただいま、ママ」
いつものように、母の面差しが映る鏡にチュッとキスをすると、不愛想な顔に少しだけ笑みが浮かぶ。
バスルームに入り、お湯を張りながら、溜まるまで髪と体を洗う。
シャワーから噴き出す熱いお湯が、仕事でカチカチの体を徐々に解していく。
それと共に、細身ではあるが、父母譲りの均整の取れた真っ白な身体が、少しずつ桜色に染まっていく。
小鳥は鏡の水滴を拭うと、それに向かって呟く。
「ママ、彼は作家だったわ」
フローラル系のエレガントな香りが充満するバスルームに、小鳥の囁きがエコーする。