神鳴様が見ているよ
2章 蒼の想いに触れる
蒼は、大学進学から、家を出て、ひとり暮らしを始めた。
 そんなに、遠くない学校なのに、ゼミの関係で、遅くなったり、そのまま泊まることがあって、不規則な生活になりそうだからだとか。
 ゴールデンウィークのあと、夏休みに入ってからの帰省は、私のバースディイブ。
「ただいまー」
 ちょうど、楽譜を持って、廊下に出たところ、蒼が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「母さんは?」
「お買い物、きっと時間かかるわ。蒼が帰ってくるんだもん、はりきって、色々、作るわよ」
 蒼は、視線を上にして、鼻をピクピク動かした。
「あ、私、ビーフシチュー、もう作ってあるの」
 彼はうなずいて、ニコッと嬉しそうに笑う。
この子供の頃から変わらない笑顔に私もつられて微笑む。
「楽しみ、理和が作ったの、好き」
 とくんと慣れた音が胸で鳴る。〝好き〟小さい頃から蒼がよく使う嬉しい言葉。いつも、耳をくすぐられるようで、こそばゆい感じがするけど、心地いい。
 靴を脱いで、私の正面に立った彼を見上げる。しばし、見つめてると、蒼は私を覗き込んで、
「ん? どうした」
 少し、違和感。どことなく彼が変わった気がするから。
「あれ、痩せた? ん、背、伸びたんだ? まだ、伸びてんの」
 彼は首をかしげて、頬に手を当てて撫でた。
「そ、痩せてはない。すこし背が伸びたから、縦に長く見えるせいデショ」
「はー、まだ伸びるんだー。しばらく見ないと、男の子って変わるもんねぇ」
 蒼は、はっと、一笑いして、
「それ、親戚や近所のおばさんの反応だ」 
「ウルサイ。さっさと洗濯物出しなさい。洗ったげるから」
 と、手を蒼に向けて差し出す。
「ははっ、母さんみたいだ」
 差し出した手で彼の腕をつつく。
「ハイハイ、はーやーくっ」
「ハイハイ。あ、ピアノ弾くの?」
 私の横を通って、立ち止まり、私の手の中の楽譜に触れる。
「うん。お母さん、帰って来るまでね」
「聴きたい、行っていい? アレ、弾いてよ」
「いいよ。ほら、洗濯物、持ってきて」
 しっしっと、追い払うように手をはらう。蒼が笑う。
「おかん、だ」
「お姉さんです。明日、お誕生日ですヨ」
 笑っていた蒼の表情が、すっと、無表情になった。
私は、どうした? と言うように、首をかしげた。
 すると、きゅっと口を引き締めて瞳をそらしてから、体をひるがえして歩き出した。
(機嫌悪くなった? どうして)

 キッチンで、アイスコーヒーを入れていると、パタパタと足音。
「洗濯入れたよー。お願い」
 表情がいつも通り彼の戻ってたから、ほっとする。
「わかった。コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
「洗濯機回したら、ピアノ弾いてるね」
「うん、飲んでから行く」

 ピアノの蓋を開け、楽譜を置いて、一音響かせる。 
 ふと、窓の外を見ると、大きな入道雲。見える空の半分を覆ってる。
「神鳴様がいらっしゃるわー」
 よく祖母が雷が来るとそう言っていて、うつっちゃった言葉。
なんとなく、気に入ってるから、自分も使う。
 カサカサと木の枝が、こすれる音が聞える。
風が出てきたから、もうすぐ、雷が来るだろう。
(うーん、洗濯、外に干せないかな)
 夏場はすぐに乾くから、蒼のをさっさと、洗濯してたのにな。
 ノック一回でドアが開いた。
「あ、ここ快適、涼し。れ? どうしたの、理和」
 窓に手を置いて、顔だけ、蒼に向ける。
「ん、もうすぐ、神鳴様いらっしゃるから、洗濯干せないなーって」
「え、そうなの?」
 彼と入れ替わりに、私は窓から離れて、ピアノの前に座る。
指を一本ずつ回して、下におろして、手首と一緒にぶらぶらは、ピアノ弾く前のルーティン。
(さて、何を弾こうかな)
 ちらりと、蒼の方を見ると、背を窓に預けて腕を組んで、私を見ていた。
「椅子に座ればいいのに、いつもみたいに」
 蒼は、はっとしたように、体をビクッとして瞳を見開いて、驚いた表情をした。
「ん、そか」
 いつもと同じ位置に椅子を置いて、椅子の背の上に腕を置き、顎を乗せてこちらを見るスタイルは、いつも。
このほうが、なんとなく私も落ち着く。
「ピアノ弾いてる理和、見るの、好き」
 そして、いつものセリフ。何度、聞いても、耳心地がいい響きで口元が緩んでしまう。
「うん」
 いつから、だったんだろう。
 彼の『好き』を聞くと、嬉しくなるのは。それは、ずっと小さい頃からの気がする。
 手を上げて、始めの一音って、ところで。
 近い音で、バリバリッ ピッシャーン、ゴゴゴ…… 鼓膜に響く渇いた雷鳴。
「来っちゃったなー、神鳴様。派手だなぁ」
 蒼も私と同じで祖母の影響で雷を神鳴様と言う。手を膝の上に置き、窓の方へ向かう蒼の背中を見る。
 ドーンドーンと大きく空いっぱいに広がる雷鳴。
 楽譜を持って、ピアノの蓋を閉める。
すると、蒼が振り向いて、
「もう、弾かないの?」
「これじゃ、音わかんないし、神鳴様いっちゃったら、お母さんが帰ってくるだろうしね」
 サーッと雨音が聞えると、外が薄暗くなり、部屋は、それよりも暗くなる。
 瞳を手の平でこすってると、
「神鳴様来ると、理和、眠くなるだろ?」 
 ゆっくりだけど、力の入った重い蒼の声に、引かれるように窓辺の彼を見た。
「う、ん」
「寝ちゃう?」
 蒼は、窓にもたれて、顔をふせているから、どんな表情をしているのかわからない。
 窓の向こうには、ジグザグに斜めに走る光の線。
 それを合図のように、蒼が顔を上げて、私を見つめる。
 瞳が離せなくなる。
 私は、稲光を見て、
 蒼は、私を見て、
 お互い、視線の先は違うはずなのに。
 まるで、見つめ合ってるみたいに。

 ピシャン、ピシャンとさっきの稲妻の音が聞える。 
 暗いグレイの空に金色の細い、線を何本も伸ばしながら、流れる稲妻。
 それに、惹かれるように立ち上がり、窓に向かう。
 稲光は、私の瞳を細くして、蒼の瞳には、光を残していく。
 蒼の瞳の奥に残った神鳴様の光を見つめる。
 瞳を細くしたまま、それ以上、開くことができないのは、まぶしくて。
 薄暗い部屋に、光る蒼の瞳は、なぜ、まぶしいのかわからない妖しい輝きを私に放つ。
 ビクンと、一回、体がはじくように、大きく震えた。
 窓に手を置くと、稲光の音が空気を震えさせて届き、指先に響く。
(これは、触れられる音だ)
 指先が震えるのは、その神鳴様の音が、カラダに響いてるから。
 カラダが震えるのは、稲妻の後を追う、次の雷鳴の響きに怯えてるだけ。 
 震える手に蒼の手が覆うように重なり、指を絡めて、窓から離される。
 耳元のささやきが、カラダを貫いて、耳に届く心音が、とくとくと、ココロを落ち着かなくさせる。
 稲光がまた、蒼の瞳に強い光を送り、私は更に視界を細くする。
 怖くはない。ただ、頭の芯が抜けていくような、穏やかな気持ちで、眠る直前のように。 
 震えるカラダから、ふわっと力が抜けて、蒼に支えられるように抱きしめられる。

 目の端に、稲光が入って瞳を閉じた。

 カーテンを閉めたのは、神鳴様から、目隠しをするため。
 でも、神鳴様、気づいてるかもしれない。
 この部屋での秘密。
 だって、神鳴様の音は届いてる。
 地面を叩きつけるような雨音も、
 木々を揺らして、吹く風の音も、
 厚い雲から、抜けてくる雷鳴も、
 神鳴様が奏でる音楽。
 きっと、知ってるんだ。
 秘密が外に聞こえないように、見えないように、奏でてくれてるんだ。

 稲妻も、雨とカーテンを潜り抜けて届かせる光は弱くて。
 だから、部屋が暗くて何も見えない。
 カラダの震えは、もう、なくて。 
 委ねて、されるがままのカラダは、ただ、アツいだけ。
 この部屋は、涼しかったのに、エアコンは止まっていないのに、カラダに冷気を感じない。
 私が触れている背中が熱い。
 私を触れている手が熱い。
 私に触れる息が熱い。
 頬をつけた時は、冷たかった床も温かくなって、冷たいところを探そうと体をよじると、引き戻されて、また、カラダもその奥にも熱に触れる。
 この部屋の音は、カーテンの向こうから届く神鳴様が作り出す雨音と雷鳴。
 そして、私たちが作り出す、微かな衣擦れと私と蒼の短く途切れる細い息。
 
 ぼたっ、ぼたっと重い雨音を合図に、神鳴様の音楽がだんだん小さくなっていく。
顔を横にするとカーテンの色が少し薄くなってきた。
 残っているのは、どこかに、雫が落ちて鳴らす、ぴっちょん、ぴっちょんという音。
雨音はもう聞こえないくらい。
 目尻に柔らかい唇の感触。瞳だけ、動かす。蒼の瞳をふせた顔が側にある。頬に伝っているのは、汗か涙かわからない。
 
 蒼は床に散らばった服を集めてジーンズだけを穿き、私を起こして、ワンピースを頭からかぶせる。それに、のろのろと、袖を通すと、彼が私の髪を整えるようにすく。
「神鳴様、いっちゃった、ね」 
「うん」
「見てた、かな、神鳴様」
 蒼はうつむいてる私を自分を見るように、頬に手を当てて、顔を持ち上げた。
「父さんと母さんには、ちゃんと言うから」
 はっと、目が覚めたように、瞳を開き、蒼を見て、首を振る。
「言わないで! 言わないでいいっ」
 彼は、きゅっと眉をしかめて、 
「なんで? 言わなきゃ。さっきも言っただろ、俺」
「だって、だって、なんていうの? このままで、いいよ!」 
 蒼は、私の瞳を覗き込むように、顔を近づける。
「ダメだ。もう、俺が限界」
 彼を見ていられなくて、顔をそむけた。
「だって、私、は、そう、じゃない」
「は」
 私の頬から、蒼の手がするっと離れて、肩を掴んだ。
思わず、顔をしかめたくなるくらい強い指の圧がかかる。
「あ、蒼が、望むならって。好きって言ってくれたから」
「ナニ言ってんの? そんなんで、こんなことするのかよ、理和」
 更に、肩に指が食い込んで、揺さぶられる。
「だって、わかんなくて、どうしたらいいか。そうしたら……」
「なんだよ。それじゃ、俺が、無理矢理ってことか?」
 かくんと、折った首を、ゆっくり横に振る。
「違う、ごめん。私が、悪い。拒めなかった、のが。怖くて、蒼に嫌われるの」
 怖くて。このまま、蒼を手放したら、もう私の所に来てくれなくなっちゃうと、思って。
 蒼の〝好き〟が、二度と聞けなくなっちゃう気がして。
 振りほどくことが、出来なかったの。
 自分の気持ちだけで、蒼の気持ちは、置いてきぼりにしたこと。
 今なら、わかる。私は、蒼にものすごく残酷なことをしたということが。
 
 
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