スターチス
紗夜 × 三沢【完】

ミントアイスクリーム


「お疲れー」
「お疲れ様です。お先、失礼します」

定時になり次々と先輩や後輩が帰ってく中、まだデスクでパソコンと向き合っている。
どうしても今日中に仕上げたい仕事があって、タダ働き覚悟で残業中。

別に急ぎじゃないし今日中に仕上げる必要もないけど、中途半端は嫌で切りのいいところで終わらせたい時は、ちょこちょこタダ働きをしてる。
せっかく上がってきたモチベーションを次の日に持ち越すことなんて出来ないし、次の日は確実に今みたいにならないし、やる気にならない。だからモチベーションの保てる今仕上げようとデスクに向かってる。

「紗夜さん、今日も居残りですか?」
「村上さん、でしょ。切りがいいところまで出来れば帰るよ」

話し掛けてきた本人は右斜め後ろに立っていて視界には入らないけど声が近いから、かなりの近さで話し掛けられてるんだとわかる。
今年入社してきた三沢くん。半年も経たない内に懐かれ、今では名前で呼ばれてしまうほど懐かれてしまった。

名前で呼ばれるのが嫌なわけじゃない。
個人的には親しみやすいならそれでもいいと思う。三沢くんが入社するまであたしが最年少だったから誰よりも親近感がわくのもわかる。

ただ、世間の情報の早さや上下関係を考えると名前よりも“先輩”や“苗字”で呼ばれる方が何かと安心する。
誰もいないと言えども“壁に耳あり障子に目あり”と言うし、別に秘め事ではないけど恐ろしいほど早く回る社内の噂話のネタにはなりたくない。

「待ってるんで食事行きませんか?」
「いつ終わるかわかんないし、あと寄るとこあるの。ありがとうね」

あたしの気持ちなんて知るよしもなく、こうして誘ってくる三沢くんは“女の怖さ”をまだ知らない。

食事に誘われるようになって3ヶ月。
あたしは一度もOKしたことがない。

「そう、ですが。じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れさま」

ドアが閉まり、フロアには誰もいなくなった。少し気が抜けて短い息を吐いた。
男女だっていっても先輩と後輩であって何もやましいことはないんだから行けばいいんだろうけど、理由はそれだけじゃない。

三沢くんはいつもタイミングが悪い。残業してるあたしに気を遣って誘ってくれているんだろうけど、その日ほどダメだってことには気付かないらしい。

あたしが残業をして帰る日は必ず寄るところがある。
それはいつもより長く仕事をした自分へのご褒美とタダ働きをして貴重なアフターファイブを仕事に使った自分への戒めとして、“ありえない時間にアイスを食べる”という他人からしちゃどうでもいい自分の中の決まり事がある。
それを誰にも知られたくて、今のところ誰にも見つかっていない。なのにこの恒例行事?を三沢くんに見つかるわけにはいかない。

自分の決めたところまで終わった仕事の保存完了を確認し、一気に気を抜くように長い息を吐いた。

「どこまで本気なんかね」

そう呟いてから帰り支度をする。
先輩から後輩を誘うならまだわかる。でも後輩から誘われるってどうなんだろう。
三沢くんよりも親しい他の後輩から誘われたことなんて一度もないし、よりによってと言えば失礼かもしれないけど、数多くいる上司や先輩の中でどうしてあたしを誘うのか、その意図がよくわからない。

残業するあたしの気を遣って誘ってくれるのは嬉しいけど、もし了承したときに“うわ、OKされた!どうしよ”みたいな顔をされたらどう反応したらいいかわからないし、社会人歴3年目に入ったばかりのあたしには本気と社交辞令の境界線がまだわからない。
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