冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
 とても愛おしい薔薇の香りが、胸をいっぱいにする。

「私はまだ、バルト国のためにやらなければならないことがあるようだ」

澄んだ声が言わんとすることに、目の前が滲んだ。

「すまない。どこか遠い国で、二人で共に生きようという誓いは、形にしてやれそうにない」
「……はい」

 そうだ。
 ディオンは自分の大義を賭して、グレイスの幸せのためにここへ来た。
 それが叶わないとなった今、ディオンが再びヴィエンツェを統治するために権威を奮うのは当然のこと。
 温かく薔薇の香りに包まれたまま、フィリーナもこれからの覚悟をする。
 ほんのひとときだけの夢だったけれど、とても幸せな気持ちをもらったことは決して忘れない。

「フィリーナ」

 腕の中を覗き込んでくる漆黒の瞳に、はっきりと自分の姿が映っている。
 傾き迫るディオンはそっと瞼を下ろした。
 優しく触れてくる口唇。
 ディオンの心が熱いほど伝わってくる。
 愛おしい気持ちがフィリーナの胸をはちきれそうに膨らませる。
< 268 / 365 >

この作品をシェア

pagetop