冷淡なる薔薇の王子と甘美な誘惑
「大丈夫だったか?」
「えっ」

 間近になるまで気づかなかったことがありえないくらいの強烈に高貴な雰囲気をまとうディオン王太子。
 驚いたフィリーナを、漆黒の瞳が不安げに見つめてきた。

「昨日の手、痕は残らないだろうな?」
「あっ、は、はい、あの、ご心配には及びません。大したことは……っ」

 使用人ごときを心配してくれる気持ちがもったいなさすぎて、あまりに申し訳なく思いながら、フィリーナは慌てて頭を下げた。
 まもなく去るであろう足元を、そこから無くなるまで下げた視界の端に置いて待つものの、仕立てのいい靴は一向にそこから退く気配がない。

 はっとして気づいたのは、昨日言われた言葉の返答を待っているのではないかということだ。

 ――“一体どうしたというんだ”
 ――“あとでいい……話を聞かせてくれないか”

 待たれていても、何と話しをすればいいのかわからない。
 いや、そうではない。
 ありのままの事実を伝えることができないのだ。

 ――だって、グレイス様は、ディオン様を手にかけようとなさった……。
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