Sの陥落、Mの発症
「か、樫岡くん…」
「あぁ、おはよう中條」

タイミングが良いのか悪いのか。
一見いつもと変わらない様子の樫岡くんにどんな顔をすればいいのか分からず、思わず視線を逸らしてしまった。

「珍しい顔してるな」

声に笑みを滲ませながらカツンと靴音を響かせて樫岡くんが踊り場まで降りてくる。

「上手くいった?」
「あの、本当にごめんなさい!」
「まぁ、人をその気にさせておいて公衆の面前で見せつけられるとは思わなかったな」

返す言葉もない。
頭を下げたままどうしようかと思っていると頭上でくく、と笑う声が聞こえた。

「もういいって。謝られる方が傷付く」
「樫岡くん…」

顔を上げるといつもの穏やかな表情に見つめられ、ほっと息を吐いた。

「もう悩みは解決したか」

そう問われて即答できず、その迷いを瞬時に見抜いた同期はまたくすりと笑う。

「なんであの状況からそんな顔になる」
「それは…」
「聞いてやるから話せよ」

自分たちがどんな関係なのか分からないなんてそんな子供みたいなこと言えない。

「なんか、すっかり恋愛の仕方を忘れてるみたい。恥ずかしいけど、こんなの久しぶりで…」
「年下男じゃ頼りないんじゃないのか?俺なら上手くリードしてやるけど」
「…もう、からかわないで」
「可愛い顔しておっかないからなー佐野」
「ちょ、名前出さないで…っ」

焦って声に平静を欠いたタイミングで、7階の扉がガチャリと開かれた。
驚いてびくり跳ねた肩越しに見上げると現れたのは佐野くん本人だった。

「佐野くん…っ」
「ほら出た」
「中條課長、探しましたよ」

一見普通の声音にも聞こえるがどこか重みのある感じが佐野くんの感情を抑えているような気がして内心焦りが募る。

どうして佐野くんが7階から?

「樫岡部長、上で探されてましたよ」
「あぁ、分かった。一課に寄ってすぐ戻る。じゃ、中條。またいつでも頼ってこいよ」

肩に軽く手を置いて樫岡くんはそのまま下の階に向かって歩き出した。

頼って、って話せって言ったの自分なのに。

妙な言い回しに引っ掛かったが気にするべきはそれではない。
上の階の扉の前から動かなかった佐野くんは樫岡くんが扉から通路へ出ていくとゆっくりと降りてきた。

「中條課長」
「あの、ごめん、探してた?」
「ええ…中條課長を探すと決まって樫岡部長といらっしゃるのでもしかしてと思って企画販売部に寄ってみたんです」

近付いてくる彼の表情が読めなくてどの対応が正解なのか分からない。
踊り場に立った彼は無表情な顔で私を見つめた。

「何を頼ってた?」
「え…」
「あの人に何を頼ってたんですか」

近付いてくる彼は静かに怒りを湛えている。
それに気付いた途端、冷や汗を感じた。

やっぱり怒ってた…!

「ちが、頼ってたとかじゃなくて…この間のこと謝ってただけで…」
「いつも何かあれば樫岡部長と一緒ですね」
「佐野くん、待って。誤解だから…あと、ここ会社だから…っ」

ジリジリと距離を詰める佐野くんから少しずつ後退りするがすぐに壁に追い詰められた。

「会社だから?それが何。…こんなことしないでって?」

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