スプーン♪
切り札は、机の下で出番を待つ。
あめ色の夕焼け。
まるで、プリンのカラメル。
その昔、お母さんがよく作ってくれた。フルーツを乗せて、生クリームを落として、プリンは好きな形に自由自在に……そんな思い出と共に、卵の優しい味も、カラメルの香ばしい匂いまでもが蘇ってくる。
今日、3回目のメニュー会議が終わった。料理の候補は5つに絞られ、後は3組の多数決で決めちゃおうという事になる。当日の作業分担など、一通りの決めごとが終わって、誰も居なくなった放課後の教室。
1人っきり。
時計はもう6時を回って外は薄暗い。
窓から外を眺めると、ちょうど陸上部がグラウンドの土をならしている。そこに、野球場から戻って来た野球部のヤツらが茶々をいれて邪魔していた。
私は、3組教室ド真ん中の席で、プリントを静かに机に広げた。
解答。グラフ。誤字脱字……問題なし。
ゆうべ、好物だらけの晩ご飯で買収した兄貴に怒鳴られながら(殆ど答えを教えてもらいながら)、何とかやり遂げたプリントだった。
『3組の教室に居ます』
職員室の岩崎先生の机の上に、そんな伝言メモを残してきた。

あの最悪の出来事から一週間が経つ。その間の数学の授業中、何故か1度も当てられていない。不自然と言えば不自然で、嫌でも分かる。岩崎先生は、わざと無視してこっちの様子を窺っているのだ。そして当然と言えば当然、あれから1度もランチタイムには現れない。徹底的だった。
いつものカバンと荷物を足許に置く。また1つ、別の紙袋をその脇に。
この切り札は、机の下で出番を待つ。私に戦えるカードはこれしかない。
自分が強くならないと……そう言ったのは岩崎先生だ。私はアユミと同様、地獄に堕ちる覚悟である。これは正統直球勝負の〝挑戦〟だった。
あんな事の後だ。岩崎先生は来ないかもしれない。授業と一緒で、無視を決め込むかもしれない。それでもいいと覚悟していたそこに、先生はやってきた。
先生自身、自分から折れてきたとも思える行為だ。本人はそれを恥ずかしいとも何とも思っていないような、そんな余裕の表情である。
「独り?」
まるで、こっちを憐れむような目だと思った。まさかと思うけれど、岩崎先生は私が謝罪すると勘違いしているのかもしれない。
「今日は何?何か、頼みごと?」
私が座った席の1つ前、椅子向きを変えて、岩崎先生も座った。何だか椅子が小さく見える。同時に、向かい合った先生はいつもより大きく見えた。
「どうしたの。今日は無口だね」
先生は、無邪気に笑った。まるで、本当に何も無かったみたいだ。話を蒸し返す事に多少の痛みはある。だけど無かった事にされて、いつかみたいな怪しい笑みを浮かべられて、明後日の方向に誤解されるのも心外だ。
「今日はこれです」
意を決して……まず、いつか渡された課題プリントを渡した。
岩崎先生はそれを取り上げて眺めると、
「ちゃんと自分でやったの?」
実はお兄ちゃんに教わった事がバレているかとヒヤヒヤしていたら、
「まさか日向に見せてもらったとか?」
サトちゃんのプリントを写した……岩崎先生は、私を頭から疑っていると分かった途端にムッとくる。
「全部、自分でやりました!」
「へぇ。やる気になったんだ」
先生は、一瞬だけこちらを見た後、またすぐにプリントに戻る。その口元は小さく笑っていた。「すげー。頑張ったな」あざ笑ったようには見えない。
「あのさ、いつかはゴメンな。〝おまえ〟とか言って。成績の事とかも、みんなの前で言っちゃったし」
驚いた。
あんまり呆気ない。謝るなんて例えどんなに自分が悪くても、この状況で私には出来そうもない事。これも大人の余裕だろうか。すっかり安心している様子の先生を見て、チクチクと私の胸は痛んだ。
だが意を決して〝切り札〟の下の紙袋を取り出す。
今朝5時起きで作ったお弁当……それを、まず机の上に置くと、両手で恭しく差し出した。
「まさか、差し入れ?」
岩崎先生の表情が嬉しそうに緩んだ。ちょっとだけ胸が痛む。
1度、深呼吸した。
「先生。どっちかを、どうぞ」
「え?」
「そのプリントの採点をするか、お弁当を味わうか、ここで、どっちか1つ選んで下さい」
途端、先生の手からプリントが滑り落ちた。
〝きょとん〟
そんな音までもが聞こえたような気がする。岩崎先生は眉間にシワを寄せ、私の目線を避けるように、落ちたプリントを拾って隣の机上に乗せた。
やがて、
「それ、どういう事?」
ゴクンと、覚悟を飲み込む。
「だから、どっちかです。仕事かご飯か。先生が受け取るのは、どちらか1つです。先生にとってどっちの次元が高いのか、ここで教えてください」
岩崎先生は急に暗い顔になる。「これって、イジメ?」ため息をついた。
「大切なのは仕事だ。メシと比べんな。それは変わんない。おんなじ」
岩崎先生はイライラと、スーツの裏ポケットから赤ペンを取り出した。
「おまえは全然、反省してないな」
ムッときた。
「さっき、おまえと言った事を謝っておきながら、まだ言ってる……先生こそ全然反省してませんよ」
「話をスリ替えんな」
岩崎先生は隣の席に移った。憤慨しながらプリントを取り上げると、サラサラと赤ペンで何やら書いていく。
もう怖い。負けそう。イヤ、だめだ!
無理と平然を装い、私は淡々とお弁当を開いて見せた。
「ちなみに……今日は2時間煮込んだ絶品A5クラスの神戸牛がっつり甘辛しぐれ煮です」

一気に言い放ったその瞬間、先生の赤ペンがブルッと痙攣して止まった。
その目は開いたお弁当に釘付け。頬の辺りがぴくぴくしている。喉の辺りでゴクンと聞こえたような気もした。
特上の神戸牛。
見れば分かる。ツヤが違う。
テリッとした、しぐれ煮はご飯が超進む。ひとかけらでご飯山盛りいける。しぐれ煮と米の境界線。おツユの浸みた絶対領域が最高にそそる。緑鮮やかな獅子唐と、情熱の赤いニンジンが牛肉の色味を引き立たせていた。2時間煮込んだ、というのだけが嘘である。
おそらく1番お腹が空いている、この時刻。つい、ポテチに手が伸びてしまう魔の時間。今まさに、岩崎先生の人間本能はグラグラと揺れているのだ。
仕事とご飯。
つまりは理性と本能。
この異種対決、一体、どちらに軍配が上がるのか。どういう理由で先生はどっちを選ぶのか。私は興味深々だ。
「先生がプリントを採点するというなら、お弁当は持ち帰って私の晩ご飯です。お弁当を取るなら、プリントは採点してもらえなかったと言う事で、倉田先生に訴えます」
岩崎先生は赤ペンを静かに置いて、腕組みした。お弁当と私とプリントを、順番に睨む。先生の頭の中で、意地とプライドを足したり引いたりの、複雑怪奇な計算がされている気がした。
やがて、「そうだ」と顔を上げる。
「僕は、弁当を食いながらでも採点できる。それだ。それで行く」
ウッと詰まった。
うっかりしていた。そう来るとは考えていなかった。こっちが困っている様子を眺めて、「どうだ?頭いいだろ」と、先生は得意気だ。だけどそれはいつかと同じで、やっぱりどっちにも真剣に向き合っているとは言えない。そんな岩崎先生の性格、そのままのように思える。
「それは……つまり先生の得意な二股ですね」
「人聞きの悪い事言うな」
「彼女と誰かを二股してる。うちのクラスで、そういう噂がありますけど」
途端、先生はお弁当から目を反らし、急に置きっぱなしのプリントを思い出したように取り上げた。でも何を書く事もせず、ジッとしたまま。プリントを見ているようで見ていない。赤ペンは止まったまま。
何だか急に、先生の様子がおかしい。言いようの無い違和感が漂ってくる。
まさか。
「先生、本当に二股してるんですか?」
岩崎先生は、キッと睨むと、
「まったく女はそういう話が好きだな。同棲とか二股とかそんな事ばっかり!」
イライラと返ってきた。恐らく周りからその手の話を何度も聞かれ、いい加減ウンザリしてるんだろうけど。
「そんな僕の事が色々と気になって成績落ちたとか言わないでくれよ」
今口メグミ!
思わず、お弁当を包みかけた手が止まった。
〝おまえ〟どころか、名前を呼び捨て。
成績落ちた?色々気になる?どれから追求すればいいの?!
「な、何を言っ……」
言葉に詰まった私を尻目に、岩崎先生の攻撃は調子良く続いた。
「ニコニコ手を振るかと思えば、ツンツンやって気を引くし。あーツンデレか。さすが阿東くんは鋭いな」
「あ、あれは阿東の勘違いです!先生は自惚れすぎなんです」
「勘違いもするだろ。お次は友達を使って愛妻弁当攻撃。波多野、光野、渡部はさっそく謝って来たけど。友達まで利用するとは」
「わ、わたしがマユに頼んだわけじゃありませんから!波多野さんと光野さんは問題外で」
「うわ。てことは、倉田には堂々と頼んだの?文化祭は大好きな僕に手伝って欲しいってゴリ押しか」
「そんな事頼むわけないでしょ!」
うっかり敬語が飛んで、ヤバいと思う間もない。
「同棲でも二股でもなくて安心した?」と畳み掛けられた。
冗談でもやめて……それを言おうとした側からすぐに遮られる。
「そういう事なら、数学ぐらいは頑張ってもらわないと!」
先生は、プリントを机に叩きつけた。
「そういう場合、女の子は素直にならなきゃ」
先生はニッと不敵に笑った。
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