不埒なドクターの誘惑カルテ
 そう言って差し出されたのは、職場巡回の報告書だった。

「え、本当にやってくれたんですか?」

 驚いた私は、受け取った資料をまじまじと見つめる。そこには各部署での問題点や解決策などが、きちんと書かれていた。

 まさかこんな完璧な書類を渡されるなんて、思ってもみなかった。それどころか、給与計算に追われて、報告書のことをすっかり忘れてしまっていた。

「すごいです。完璧じゃないですか」

「当たり前だろう。俺を誰だと思ってるんだ」

 得意げに胸を張る先生を見て、そのわざとらしいしぐさに思わず笑ってしまった。

「そうですね。さすが束崎先生です」

 笑いながら私がそう答えると、先生も満足そうに笑う。

「そうだろう。俺に、惚れ直した?」

「なに言ってるんですか? 私がいつ先生に惚れたんですかっ?」

 いきなり突拍子もないことを言われて、ついむきになって返してしまう。

「あれ、俺の勘違い? あ〜俺の片思いかぁ」

「もう、馬鹿なこと言わないでくださいよ」

 おどけた調子に、思わずクスクスと笑ってしまう。さっきまで、集中して仕事をして張りつめていた気持ちがふいにゆるんだ。

 私がもう一度報告書に目を通そうとしていると、さっとそれが奪われた。

「あっ……」

「今日はもう仕事はおしまい」

 先生はすっと手を伸ばし、デスクの上のマウスを手にする。そしてあっという間に開いていたアプリケーションを閉じ、シャットアウトしてしまう。

「ちょ、ちょっと何するんですかっ?」

 まだ仕事が残っていたのに、これでは続きができない。

 思わず声をあげた私に、束崎先生が呆れた顔をした。

「残業時間の短縮を訴えている社員が、誰よりも残業してるってどういうことだよ。
今日もこのぐらいにして、さっさと帰らないとお化けが出るぞ」

「そんなバカな話、信じると思ってるんですか」

「お前知らないのかこのビルの噂。昔このビルで失恋を苦した女が……」

 まさか……本当の話なの?

「いや、やめてください。私その手の話は苦手なんです」

 耳をふさいで怖がる私の耳元で、先生が声をあげた。

「ほら待っててやるから、さっさと片付けろ」

「え?」

「駅まで送って行ってやるって言ってるんだよ。早くしろ。それとも、ユーレイとご対面したいわけ?」

「ダメ、それだけは絶対だめっ!」
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