【B】眠らない街で愛を囁いて
我ながら、どんな覚え方なんだろうって思ってしまうけど、
それでもあの日、私は自分の名前を『かなめ』と告げたけれど、
その夜行バスの人の名前は覚えてないのだ。
あの日は、運転することに夢中で、
正直、車内でどんな話をしたのかも覚えていない。
私がガチガチになってハンドルを握り続ける姿を助手席で見ながら、
かなり怖かったはずだと、想像する。
そんな記憶を反芻しながらも、その人の声を捉えた。
「こんばんは。
ここで働いていたんだね」
人当たりの柔らかい、心地よい言葉が響く。
「あぁ、夜行バスの人だ……」
思わず零れ落ちた言葉。
「夜行バスの人か……。確かに、浜松のサービスエリアでは困っていたところを助けていただいて有難うございました。
俺の名は、泉原千翔っていいます。
あれからお礼がしたくて、別れたインターチェンジに何度か向かって君を探してみたんだけど、
見つけることが出なくて、ずっと気になってたんです」
スマートに続けられた自己紹介とあの日のお礼に、
これが夢ではなく、現実なのだ認識した。
もう少し泉原さんとの時間を共有したいっと思いながら、
お客様は待ってくれない。
泉原さんの後ろに並んでしまったお客さんを確認して、中断していたレジ業務をすぐに再開させた。
「お会計12点で1256円です」
「支払いはIDで」
泉原さんの声を受けて、レジのパネルのIDボタンを押すと、
決済処理をしている間に、レジ袋へと商品をつめる作業を始める。
「悪いけど、袋を2つに分けて貰っていいかな」
泉原さんのその言葉にもう一枚、レジ袋を取り出した。
綺麗な長い指先でプリンとシュークリームを一つずつ選び取ると、
指示されたとおりに、レジ袋をわけて詰めた。
彼女にでもあげるのかな……漠然とそんなことを想像しながらチクリと胸に痛みを感じた。
ちゃんと最後まで仕事しなきゃ。
レジ袋の取っ手をくるくると丸めて、
持ちやすいように準備をすると、
「これはとりあえず俺からのお礼。改めて、時間を見つけてあの時のお礼はさせて貰うから。
じゃっ、お仕事頑張って」
っと取り分ける様に指示した、レジ袋を私の手元に残したまま、
もう一つのレジ袋だけを掴んで店内を出て行った。
一瞬何が起こったのか、頭が真っ白になって私はその場に立ち尽くす。
「ねぇ、早くしてくれる」
次のお客様の催促に、慌ててお見送りの義務的挨拶を告げて次のお客様の対応を始めた。
次にお客様の列が途切れた時、
すかさず隣にいた織笑が近づいてきて「何よ、叶夢。あのイケメン」っと小声で囁く。
このまま尋問されそうになる私を助けてくれたのは、
やっぱりレジに並んだお客様で……。
そのまま私語が出来ないまま、20時までのシフト時間を終えた。
「お疲れさまでした」
交代人員が出勤して私は、店内から少し離れた更衣室へと移動を始める。
そんな私を背後からがっしりと確保するのは、
言うまでもない織笑だ。
「はいはい、叶夢ちゃん。どういうことか教えてもらいましょうか。
今から、隣のカフェ行くわよ」
その言葉に逆らえるはずもなく制服から私服に着替えを済ませた後、
私たちは隣のカフェへと移動した。
いつものように飲物を注文してテーブル席へと着席すると、
織笑は身を乗り出して「さぁ、叶夢話してもらいましょうか?」っと
鼻息荒く話しかけてきた。