プラス1℃の恋人
「おつかれさまでした」

 千坂に頭を下げたが、彼はそのまま別のエレベーターのボタンを押した。
 53-54Fと書かれた、レストラン、バー専用のものだ。

 まさか千坂主任も、上のレストランで誰かと会うのか?

 それは困る。
 だって自分は、これから児嶋と食事をするのに。

「二階堂から電話があってな。接待でしばらく帰れないそうだ。児嶋も一緒だと」

「え?」

 スマートフォンを見るが、児嶋からの着信はない。

「営業も大変だよなあ」

 はっはっはっ、と千坂は豪快に笑った。
 こっちはちっとも笑えない。

 高級レストランでおひとりさまですか?
 もしかして、二人分の料金を、私が支払うことになったりして。
 予約したのは児嶋だけれど、支払いのことまでは聞いていない。

 ジムの入会費を捻出したため、正直少々ふところが痛い。
 キャンセルだって、いまからは無理だろう。

 データ管理課の紫音は、まだ残業しているだろうか。
 遅くなってからでもいいから、付き合ってくれないかな……

 すると千坂が、青羽を見おろしながら、ネクタイの結び目をきゅっと揺らした。

「ということで、俺が代打を仰せつかった。入荷したうちの商品を見に行くんだろ? 安心しろ。俺もビアテイスターの資格を持っているんだ」

「ああ、そうでしたね……」

 あのときと同じ、53階のレストラン。
 治まりかけた熱中症が、再発してしまう?

 ――ないない。ロマンティックなことなんて、絶対にない!

 あのときだって、そうだったじゃないか。

 窓際の夜景の見える席で、告白でもされるのかと思ったら、ただの接待だったわけで。
 おまけに、ひと晩だけの関係になって、あえなく玉砕。

 それからはずっと、上司と部下としての距離を守ってきた。

 でも――。

 期待しちゃ駄目だと思えば思うほど、心臓がバクバクと騒がしく跳ねる。

 やっぱり今夜、なにかが動き出しそうな予感がする。
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