意地悪な彼の溺愛パラドックス
浮気な彼に陥るハプニングキス
――カチッ、カチッ、ガチッ!
悪路だ。
私は今、地球上で最も険しい道で、恐ろしい魔物に行く手を阻まれている。
「忘れ物」
声の主はスラリと伸びた足の右足に重心をかけ、左のポケットに片手を突っ込んで立つ。
今日は深いグレーのスーツに落ち着いたブルーのネクタイ姿。
右分けにした前髪がサラサラと揺れると、いつもの無造作ヘアとの相乗効果でより魅力的だった。
悪魔というのは昔から人を魅了する。
まるで閃光を放つかのような瞳が、胸に突き刺さり息苦しい。
そんな彼が差し出す右手には、見覚えのあるバンスクリップ。
その先をカチカチと鳴らして、私を噛み食おうとしているのだ。
「……お、怒って、います、よね?」
「そりゃ。俺様のご恩を平手打ちで返されたらな」
床にめり込むくらいの土下座でもした方がいいか。
来店早々、事務所へ連れ込まれ出入口の前に陣取った奴に活路を奪われた私は、ゴクリと唾をのんで先日の失態を後悔した。



『バカヨが元気じゃないと、触る楽しみが半減する』
その微笑みは私の首を絞めた。
これ以上、甘えてはダメだ。彼には家族がいるのだから。
「元気ですよ」
だから、私は笑った。
この人には優しくすべき人がいる、この恋は永遠に私だけの秘密にして終わろう、そう思った。
「柏木さんに相談することなんて、なにもないですから!」
その言葉に、落ち込む私を励ます彼の瞳が揺れ動いたようにも見えたが、かまわず視線から逃げるように立ち上がる。
「帰りますっ」
けれどアルコールに侵された身体は、自分のものではないみたいに重ったるく、急に立ち上がった私の脳内を再び侵食した。
ヤバイ。
そう思ったときにはもう遅くて、胸の中の不快感と目眩に襲われ崩れ落ちていく。
重力に逆らえなくなった私をパッと受け止めてくれた彼は、どんな表情で私を見ているのだろう。
こんなときなのに、抱きしめられているみたいで幸せだなんて考える私は最低だ。
ただ、そう思える感情こそがストッパーだった。
「大丈夫か? バカヨ?」
「ばか、じゃ、な……」
柏木遼のバカ。セクハラ。浮気者。
ゼロ距離で交わされる声の波動は私を沸騰させ、とろけるような睡眠へ引きずり込む。
ごめんなさい。
ずっとずっと、こうしたかった。
「……帰ってくれないと、困るんだけど」
つぶやいた彼の言葉は、たしかに困惑だった。
滲んだ涙はたったひと粒なのに、それに気づいて目もとを拭った優しい指先が、つらい。

「うう、首痛い」
ヨダレを啜りながら目を開けると、あまり遮光されていないカーテンが太陽の訪れを告げる。
今は何時だろうと頭の上に手を伸ばすが、いつもの定位置にスマートフォンはなくて、代わりにムニッとした不思議な触感と「うぐっ」という不気味な鳴き声がした。
私は「うえっ!?」と伸ばした手を引っ込めて、そもそもここが自分の家ではないことに気づく。
落ち着いた色合いのシンプルな部屋と、息が詰まるような煙草の香りと、ブラックがシックなローソファ。
ふかふかのそこに寝ていた私にかけられた毛布に見覚えはないが、私の頭上のわずかなスペースを枕にして、淡いグレーのデザインラグに転がりモゾモゾしている彼には見覚えがある。
ギョッと目玉を飛び出しその勢いで身体を起こすと、走る稲妻に頭を抱えた。
「うわ、頭痛!」
二日酔いにもだえていると、突然うしろ髪をわしづかみされ、わしゃわしゃとかき回される。
「やっ、なに?」
「寝癖もすぐ直るんだね」
そう言いながら、彼は私の髪に何度か指を通して自然光に透かす。
寝起きの掠れた声が鼓膜をくすぐり、恥ずかしながら控えめに振り向いた。
彼の目は普段の二分の一ほどで、眠そうな目もとは降下気味。
左側を下に寝ていた証拠に、片方だけの寝癖と頬にはソファのクロスの跡があった。
フッと笑いが込み上げて視線をはずすと、ラフな服をラフに着て男性らしい鎖骨をあらわにしている彼に、あらぬ妄想を企てさせられる。
(まさか、まさかまさか!)
私は真っ青になって叫んだ。
「やった!?」
「は?」
「やったの!?」
「や、やってねー!」
「サイッテー!」
「え? だからなにも……」
「イヤー! うわーん!」
興奮した私は、彼の頬にバシィッと痛恨の一打を打ち上げ、部屋の隅にまとめて置いてあったコートとバッグをつかみ玄関に走る。
引き止める声が微かに聞こえはしたが、今の私を止めることは誰にもできない。
アパートの玄関ポーチを駆けるパンプスの音が激しく響く朝六時。
清々しい空気が身体を冷やし、ときおり吹く風がひんやりと頬をなでた。

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