意地悪な彼の溺愛パラドックス
結局そのプレッシャーから最初に目を逸らすのも、頼みを断れないのも私。
仕事中、身に着けていた制服のリボンタイや仕事道具の入ったポーチをベルトからはずして机の上に置き、髪を二つに結いでいたヘアゴムを取り右手首に通した。
そして立ち上がり彼に間を詰めて、うつむき、つぶやく。
「……どうぞ」
うつむいたのは、これからすることに対し生理的に染まった頬を隠すため。
つぶやいたのは、恋人でもない人に触られる私の乙女な恥じらい。
「さすが俺のオアシス」
「お昼、柏木さんのおごりですからね」
「はいはい。本当にバカヨは食い気しかないのな」
チッ、人の気も知らないで。
どこまでもふざけた奴。
ドリンクとデザートつきのランチセットを頼んでやろう。
そもそも私の名前は『馬場(ばば)かよ』だ。
バカヨなんて、こんなニックネームは人生で初めてつけられた。
つけたのはもちろん柏木遼。
奴は私を、馬場かよ→ばばかよ→バ・バカヨ→バカヨ、という最上級に失礼なところで区切りその名で呼ぶ。
怒る私が詰めた彼との間を鼻歌交じりにさらに詰められ、うつむいた先に黒い革靴が見えると、上下関係が身体に染み込んでいる私はもう下唇を噛みしめるしかなかった。
自然と両肩に力が入り身構える。
蛍光灯の光を遮り、私に影を作る彼を恨んだ。
迫る影に苦し紛れの言い訳を考え、自分に言い聞かせる。
これは取引だ。
彼の財布からはお札が飛んでいき、私はお腹いっぱいになれるうえランチ代を得したことになる。
私にかかるコストは〝触らせる〟だけ。
しかし現実、このコストの代償は私にとって大きい。
さらに断れないのではなくて、断らないが正しい。
了承を得た長くしなやかな指先は、躊躇うこともなく私の髪をサラサラと縫い、彼は歓喜に満ちた感嘆をこぼす。
汗くさいかな、とか、誰かが入ってきたらどうしよう、とか。
ひとり焦る私は虚しい。
彼に向かい合ってうつむいた私は、無意識に逃げ場を探していたのかもしれない。
キョロキョロと視線だけを事務所の出入口へ泳がせていると、誰かと目が合いドキリとして注視した。
ハッと短く息を吐く。
バチリと合わせた視線の先には、店内に入る前に身だしなみのチェックをするため、出入口のドアにかけられた鏡。
毎度飽きもせず自分に動揺して冷汗を流すなんて、我ながら滑稽だ。
この状況を見ていたのは、鏡に映る私だけ。
事務所内を映す監視カメラに背を向ける彼が、巧みに死角を作っているのを知っている。
一方、一緒に映る彼の視線は私の一点を一心不乱に見つめていて、気づく素振りもないそのときのシャープな目つきは魅惑的で私の心をもてあそぶ。
桃色に染まり上がる私は、羞恥心で泣きそうだった。
初めてではない。
手慣れたものだけれど、私が見るには耐えがたい。
弧を描いた意地悪な唇が口づけるかのように距離を詰めると、決まって私は私から目を逸らし、ギュッと閉じた。
すると少し掠れた低い声色が私の鼓膜をくすぐる。
「この香り、いいな」
呑気なことに、彼は私のシャンプーの香りがお好みらしい。
悪い気はしなかった。
強すぎないフローラルの中に、フルーティーな爽やかさがうまくマッチしたお気に入りだから。
しかしそこに埋もれる彼がくすぐったくて、わずかに震わせてしまった背筋に気づいた彼が「ごめん」とつぶやいた。
それもまたこそばゆいのを承知だろうか。
異様な雰囲気に満ち始めた密室が、脳内を混沌とさせる。
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