意地悪な彼の溺愛パラドックス
タンッと鳴った一歩分の足音と、背後の距離感に驚いて振り向くと、柏木遼はアンニュイな眼差しに魅惑を絡め、ワントーン下げた声色で誘引してきた。
そうして包み込むように彼の指先が私の頬をすべり、その感触にゾクリと背筋が震えた私は、思わず不本意な擬音を発してしまう。
「うげっ!?」
「え、ひどくね?」
蛙の鳴き声にも近い「うげっ!?」は彼を多少なりと傷つけたらしく、しなやかだった指先を硬直させてふらりと私から二歩ほど遠ざかる。
彼は唇を尖らせると、まるで子供のようにボソボソと弁解した。
「色気ない声出すなよ。枯れかけに潤いを与えてやろうと思ったのに」
「間に合っていますのでご心配なく」
「嘘だろ。今の反応で久しくナイのは一目瞭然だぜ」
「よっ、余計なお世話です!」
いっときはシュンとした素振りを見せたと思ったのだが、カッと熱くなった私の反論に、今度は楽しそうにケラケラと白い歯を見せている。
「食い気ばっかり磨いてると、いつまでも独り身だぞ」
「うっさい! おバカ!」
思わず私がムキになるようなことを仕掛けるときの彼の表情は一風変わっていて、私の脳内はいろいろな意味で沸々と煮え立つ。
勢い任せに握りこぶしを振りかざしたら「キャー」とお姉様のような反応を返してくれたひょうきん者に「そっち系なんですか?」と、冷静に白い目を浴びせてやった。
冗談はさておき、おっしゃる通り色恋事は久しくナイ私。
仕事に精を出すあまり二年前に振られたのが最後だ。
三十歳までには素敵な人と身を固めたいなんて密かな願望があるのだけれど、彼氏すらできないしそんな人が隣に寄り添ってくれることがないまま、叶わぬ夢となりそうな二十六歳真っただ中。
ちなみにタイプは優しくて頼もしい人。
外見も中身も社会的にも、ハイスペックならなおよし。
理想が高いから独り身なのかと聞かれれば、それは違うと叫びたい。
きちんとした理由はあるものの、目の前のおバカから精神的ダメージをこうむった私は、深いため息をつきながら机へ向かい椅子を引いた。
三文芝居につられている場合ではなかった。
私が日々担う役目と職務としては、休憩に入る前にやらなければならないデスクワークが二、三あるのだ。
とはいえサービス業。
したがって普段事務所にひとつあれば充分な机では、私が来るまで彼が仕事をしていたのだろう、腰を下ろすと椅子が生ぬるい。
それこそ「うげっ」な気分で顔をしかめパソコンに向かい、本部から届いていたメールを開く。
月刊メールマガジンのような、今月の目標や新しい景品の予告、ピックアップ店舗の紹介などを丁寧に流し見て閉じた後、タイムレコーダーの隣に貼ってある、自分が作ったシフト表を人差し指でたどる。
そしてパソコンに映される、広い店内の随所に設置された監視カメラの映像を見ながら、従業員それぞれの持ち場をチェックした。
「よし、問題なし」
「よし、触らせて」
オウムのように口調を真似てジリジリと迫る彼は、私の座る背もたれに手をかけ、逃げ場を狭める。
ギシッと軋む椅子の音を合図に、負けまいとして振り返り睨みつけた私の気迫を、悪びれないフレッシュな笑顔が相殺した。
ワインレッドのネクタイを緩め、白いワイシャツの第二ボタンまで開けた襟から覗く首筋を目の前にすると、私は抑圧されて一枚岩を踏みはずしそうになる。
そして口角を上げた唇からこぼれた、低くて穏やかな声がリーチをかけた。
「いいでしょ?」
ゴクッと抑圧をのむと、瞬く間に見えない鎖が思考を縛りつける。
この憎いほど愛嬌のある爽やかなスマイルは罠に違いない。
垂れ目がちだけれど目つきの悪い彼が笑うと、私にはいつもどうしても意地悪く見えた。
< 2 / 68 >

この作品をシェア

pagetop