意地悪な彼の溺愛パラドックス


かよちゃんのご両親のこと、聞いてもいい?
……そう、素敵。すごくいいことだと思う。
少し考えられないかもしれないけれど、私たちにとって普通の家族っていうのは、うらやましいことだから。

『里央はもうお姉ちゃんだから、遼の面倒を見てあげなさい』
『ママ、おでかけするの?』
『お仕事なの』
昔、私たちが住んでいたところは古くてカビ臭いところで、家族のぬくもりとか愛情なんていうものからは、かけ離れていた。
私が物心ついた頃にはもう母子家庭で、母親は仕事だと言っては昼夜問わず家を空けるような生活。
『待って、ママ』
『うるさいっ! 忙しいのよっ!』
普段から口数の少ない人だったのだけれど、衝動的に怒鳴ることは多かった。
私たちが小学生になるとほとんど帰らず、数日ごとにパンやお菓子を買って置いていくだけ。
物さえ与えておけば無干渉、放置でも支障ないと思っていたのかも。
どんな仕事をしているのかもわからない。
次にいつ会えるかもわからない。
叩かれることはないけれど、優しくされることもない。
追いかける私たちを困ったような、怯えたような目で見ていて、挙動不審になって逃げるように出ていく。
今でも目に焼きついているのは、うしろ姿。透き通るように綺麗な長い髪の人だった。

『リオ! それよこせ』
『やだよ。遼はさっき食べたでしょ』
『たりねーもん』
『同じずつだよ』
不安も慣れればそれが普通になる。
ひとりではないということが、救いであり支えでもあったから、私たちはよく喧嘩するけれどとても仲良しで、お互いになくてはならない存在。
テーブルに広げたパンを半分にするのは私で、コップに水を用意するのは遼。
でないと遼は自分の分を多くするのよ。
背を伸ばせばなんでも届く。
ふたりで助け合えば、なんでもできる。
完璧でなければ、けっこう子供でもできるものだから。
こんな状況でも楽しいと思えた。
『ぜんぶ食べちゃおうぜ』
『だめ。明日の分なくなっちゃう』
『でもお腹すいた!』
『ガマンしなさい。宿題したの? できてるか見てあげるよ』
『ちゃんとできてるよ』
寝る前に私が宿題を見てあげるのが日課だったのだけれど、遼は字が、ちょっとね。
答えは合っているのに全然読めないの。
……あ、やっぱり? 今でもそうなのね。
『これじゃ1か3か、わかんないよ! それに名前はていねいに書きましょうって、この前プリントに書いてあったよね』
『オレの字が読めないヤツは、読まなくていいんだもん』
『読める字で書かないと、気持ちが伝わらないんだよ』
『どーせ伝わらないだろ。オレもう寝る!』
そんなことを言ってもまだ子供だったから、強がっていただけ。
〝ママだいすき〟
そう母親に宛てて書いた手紙を、遼は毎晩テーブルの上に置いておいた。
いくら心を込めて書いても、読まれることも伝わることもないのに。
遠い記憶のやわらかなぬくもりは、もう幻。
でも嫌いにはなれないものでしょ?
もしかしたら明日は会えるかも、抱きしめてくれるかもって、まだ期待していたの。
でも、叶わなかった。

『ママ!』
ある春の日の夜、母親は突然現れた。
『ママおかえり! 遼、起きて! ママが帰ってきたよ!』
うれしくて飛びついた私を、あの人は強く抱きしめてくれて、そうしたら苦しくなったの。
『ママ、……苦しい』
喜びから我に返ると、震える母親の両手が私の首を絞めていた。
何度も『ごめんね』と繰り返すのに、その目は見たこともないほど恐ろしくて、すごく怖かった。
『リオ!』
だんだんと目の前が見えなくなっていくとき、叫び声と同時に手が離れて、むせ返るように咳き込む私の手を引いたのは遼。
母親に噛みついて怯んだ隙に、私たちは裸足のまま無我夢中で逃げ出した。
それでも子供の足に追いつくのは簡単で、私が転ぶと迫るあの人に遼は飛び込んでいった。
ちょうど歩道橋の階段を駆け上がるところで、その瞬間、ふたりはフワリと宙を舞う。
おかしいよね。
夜の光に透かされた母親の髪が、キラキラと輝きながら落ちていくその光景が、綺麗で忘れられないの。
転げ落ちた母親はぐったりして倒れているし、遼の背中にはなにか鋭利な破片が刺さっていて血だらけ。
『いたいよー』って泣きわめく遼に私はどうすることもできなくて、真夜中にふたりで泣き続けた。

母親は大怪我だったみたいだけれど、幸い命に別状はなかった。
正当防衛だとしても、遼が人殺しになるなんて嫌だから。
生きていてよかったと思う。
あとに知ったことだけれど、あのときには精神的にかなり不安定だったらしくて、そのまま精神障害で入院したそう。
それきり会っていないのは、母親が望まなかったということかな。
長い悪夢を見ただけのような気もするけれど、現実である証拠にいまだに襟もとを緩める自分がいる。
肉親がこんなふうだと、誰かと深く関係を作ることになかなか踏み出せない。
きっと遼も、そう。
人って不器用よね。
ぬくもりを知っているから、独りでは生きていけないし、心って簡単に壊れるんだろうね。

< 59 / 68 >

この作品をシェア

pagetop