私、古書店の雇われ主人です。
桧垣教授はB大学の名誉教授で、うちの古くからの常連さんだった。

気さくでユーモアがあって、笑顔が優しい素敵な紳士。博識の桧垣教授は店を訪れる度に、知識も経験も浅い私にいろんなことを教えてくれた――。

「店長さん、あれはもっと高値をつけてもいい本だよ」

「ええっ。教えていただいてありがとうございますっ」

「あとね、あっちのそれは今の値段では買い手がつくのは厳しいかもよ?」

「すみませんっ、勉強不足で……」

「いやいや、つい……。お節介やきの爺さんで申し訳ないね」

帰りしなにこっそり小声で教えてくれて、にっこり笑って去っていく。桧垣教授はいつもそうだった。

売値にしても買い取りの値段にしても、価格の決定という作業は本当に難しい。とくに、うちのような品揃えだと、状態の良さだけが価値を決めるわけではないから。

結局は、勉強して経験して、また勉強をして経験を積んで力をつけていくしかない。だからこそ、駆け出しのダメダメ店長を温かく育ててくれる桧垣教授にはいつも感謝していた。本当、まだまだたくさんいろんなことを教わりたかったのに……。

「奥様から四十九日も過ぎて落ち着いたからって連絡をいただいて。亡くなる前に、書斎の本はまずはお弟子さんたちに分けてあげて、残った本は全部うちへ買い取りを頼むように、って。教授がそう仰っていたそうで」

「それでカンナさんが……。なるほどね」

羽鳥さんはどこか懐かしそうに、ちょっぴり淋しそうに目を伏せた。

「じゃあ、その桧垣教授という人の奥さんに返してあげたほうがいいですよね、この食券。なんか、思い出の品とかかもしれないし」

航君の言うことに、私も羽鳥さんも賛成だった。

「でもね、桧垣夫人はしばらくお留守なの」

海外で暮らす娘さん夫婦のところへ出かけると、夫人からは聞いていた。だから、買い取り価格の算定作業は急がなくてもいいからとも。

「あ、寿々目食堂! ありましたよ、ほら」

「えっ」

(航君、いつの間に……)

航君の仕事の早いこと。羽鳥さんと私は二人して、スマホの画面をのぞきこんだ。

「おおっ、さすがは航君」

「どれどれ、私も見せて」

寿々目食堂は県北のR市にあり今も営業中とのこと。写真だと昔ながらの普通の定食屋さんに見える。

最寄り駅は各駅しかとまらない小さな駅で、近くには地元に縁(ゆかり)のある画家の美術館があるらしい。

(なんか……行ってみたいかも)

気持ちワクワクしていた。本がもたらす奇妙な縁。栞がいざなう不思議な旅。あるとわかったからには、寿々目食堂をこの目で実際に確かめたい。すると、そんな気持ちを見透かすように航君が言った。

「ここ、行ってみたくないですか?」

「じゃあ、三人で行っちゃう?」

もちろん、私は渡りに船とばかりに乗っかった。けれども――。

「なら、二人で行ってきてくださいよ。カンナさんと羽鳥さんで。ね?」

(ええっ……)

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