あたしとお義兄さん
27.拉致られた状況で



「……まあ、とにかくね。時間を稼がなきゃならないんだよ。今回一回っきり乗り切れれば会社は立て直せる。最も良い話もあってね。
 きみのお義兄さんの工藤君が顧問の大会社なんだけど、資金提供を申し出てくれているんだ。ただ…問題はある」

 おじさんは厳しい表情になって、遥か遠くを見つめた。

「彼は間違いなく、我が社を吸収合併する方向に持っていくだろう。まるで、赤子の手を捻る様に簡単に。まあ、それが悪いと言っている訳じゃない。私一人の問題なら、それも時代の流れだろう。
 だが、そうなれば開発部門以外の社員は無用の長物だ。大規模なリストラは免れない。大切な社員達だ。…私にはそれが耐えられないんだよ」

 おじさん社長がいい人だって事が充分に分かる語りに鈴子は眉根を寄せる。

「犯罪を犯せば社名は地に落ちますよ?こんな手を使って何になるんです」
「既に代表取締役は辞任してきたよ。これは私一人の犯罪だ」

 電気は通っていないのか、きていても点けていないだけなのか、薄暗い室内で仄かに明るい窓から漏れる隙間風に薄いカーテンが揺れる。

「君は解放するつもりだよ。今回の件もただ工藤くんに対してしかアプローチしていないからね。彼が警察に届けなければ、君の外聞も悪くならない。資金提供は既に成されている。
 君は手形が落ちるまでの三日間、ここに留まっていてくれればいいだけだ」

 その淡々とした物言いに、鈴子は回らぬ頭を巡らせた。

「あたしはただあの人の新しい義妹ってだけですよ?何だって静馬さんにそんなに影響があると思ったんですか。
 そもそも、よくあたしに目を付けましたね」

 関係からいったら一番遠いだろう。しかも、両親もまだ正式には籍すら入れていない。

「だって、工藤君自身が言ってたから」



 あたしは椅子ごと倒れた。



「おおうっ、何だいッ⁉︎大丈夫かい、あんた!」
「…スミマセン、あの『義兄』は…一体何をほざいていたんでしょうか?」

 倒れたまま、口からエクトプラズムらしきものを(白い息とか可愛らしいもんじゃない)フワフワと吐きながら尋ねた。

「え、と…、一番大事な義妹に嫌われてしまったから、もう自分は人としてお終いだ。こうなったら、仕事に生きるしかない、とか、そんな風なないようだったカナ?」

 おっちゃん元社長は明後日の方向を見つめながら、そう不自然に努めて明るく答えた。

「違いますね。こう、言ったんでしょう。
『お気の毒だと言いたい処ですが、貴方の会社がどうなろうと知った事ではありませんよ。現在、私の機嫌は史上最悪で、一片の情すら挟む余地は無いので。巨万の富など、私には興味のあるモノではありませんが、クライアントが望むのであれば、顧問としてリクエストに応えるのみです。残念ながら、貴方のその想いは感傷にしか過ぎず、私を動かす材料には到底なり得ません』」

 おっちゃんはノーブレスで一気にここまで言い切ったあたしに驚いて、感心した様に頷いた。

「凄いね、鈴子さん。殆どニュアンスは一緒だよ。そこで、私がこう言った。『では、あんたを動かすのは一体、何なんだ』とね」

「『もう、この世にはありません。情は全て大事な義妹の所に置いてきましたから。ですから、貴方の前に居るのは既に人として終わった者です。あの女性に嫌われてしまったから、もう何も怖れるものは無い。貴方は今、人の形をした機械の様なモノと話しているんですよ』──────と、こうでは?」


 ぱちぱちぱちぱち‼︎
 おっちゃんが真顔で熱心に拍手していた。
 鈴子はこのまま、古びた絨毯と同化してしまいたかった。

 よいしょ、と椅子ごと起こしてくれた元中小企業社長はどこで買ってきたのか、白いフワフワした手錠を取り出して、彼女の後手にかしゃん、と掛けた。
 それには丈夫そうな鎖が付いており、トイレまでくらいなら行ける長さになっている。
 ばさり、と椅子に鈴子を固定していた縄を切り、食料と水。退屈を凌げる様に数冊の雑誌。彼女の荷物。それを側に置いてくれる。

「大人しくしていてくれれば殺したりしないよ。…死ぬのは私一人だけのつもりだからね」

 部屋を出て行こうと立ち上がり、おっちゃんは寂しげな笑顔を浮かべた。

「え?」
 何とか、手を前に持っていこうとしていたあたしは、思わず顔を上げた。

「逃げるつもりなら、あんたに目隠しでもしているよ。家族には何にもしてやれないばかりか、犯罪者の父を持たせる事になる。せめて、保険金くらい遺してやらんとね」
 そう言うと、彼はバタン、と扉を閉めた。




 バッグの中に携帯は無かった。
 やはりそこまで甘くは無い、という事か。
 鈴子は試しに灯りのスイッチに辛うじて手を伸ばしてみたが、点く様子は無かった。

 やはり電気がきていないか、ブレーカー毎落とされているのだろう。

 何でこんな事になったのか。

 陽が落ちてきたのか、窓の外からオレンジ色の光が差し込んでくる。
 窓まではいけない長さの鎖をチャラリ、と鳴らす。まあ。漏れる光の量からして、外から板を打ち付けてある様だけど。

 相変わらず迷惑な義兄だ。
 鈴子はサンドイッチの包みを苦労して開けながら、そう思った。
 もぎゅ、もぎゅ…と食べながら、塩かケチャップ欲しいなーとか呑気に思った。
 取り敢えず、逃げる気は無かった。おっちゃんに同情していたからでもある。
 それに間接的には自分の所為でもある気がした。

 彼と結婚していたら、あの人は周りに優しかった?
 何の問題もなく、あたしは幸せだった?
 おっちゃんは死のうと考える事も無かった?

 いや、分かっている。これは逃避だ。誰の所為にした処でそれが出来ないからこそ、あたしは逃げたのだし、あの男性を拒んだ。覆し様の無い歴然とした事実だ。

 それでも、それでもと考えてしまう。
 それは『何故』なのか。
 既に、陽は落ちてしまい、考える事しか出来ない暗闇の中で、鈴子は否応無しに本心に向き合わされてしまう。

 それは…………。




 かちゃん。


 ドアノブの静かに回される音に、あたしはぴくりと反応し、振り返ろうとして。
 素早く室内に忍び込んで来た人物の手によって口を塞がれた。

 力が強い。男だ。
 あたしは藻がきながら、視線を上げた。


「────────‼︎⁉︎」


 彼は小さく、耳元であたしを呼んだ。


『静かに、リン』


 黒曜石の瞳が僅かな月明かりに輝く。
 しなやかな身体は暴れたあたしを押さえ込んでいたが、彼を確認して力が抜けていくと、愛おしむ様に優しく抱き込んだ。

『怪我はありませんか?』
 短い問い掛けにあたしはものも言えなくて、ただただ首を振る。
 義兄の暖かな指が、そっと目の下を拭った。
『怖い思いをさせましたか、すみません。ここを出た後で如何様にでも償いますから』
 そう言うと、しゃがんで手錠の鍵の部分に針金を突っ込んだ。
 音をなるだけ立てないように慎重に動かしている。


『……何で、来たの、よ』


 静馬は驚いた様子で顔を向けたが、合点がいった風に小さく返した。
『貴女の携帯、GPSで毎日位置を確認していましたから。あれから、ずっと』
 多分捨てられていたのだろうそれをポケットから出して見せると、綺麗に微笑った。
 鈴子は優しく手を取られ、静馬はまた作業に戻った。

 力無く頭を垂れると、義妹は緩く首を振る。
『そんな、事、聞いてない。あたし、貴方の事……』

 静馬は胸が詰まって上手く喋れない鈴子を、そっと抱き寄せた。

 張った筈の意地が泡の様に溶けていく。

 初めて抵抗無しに義妹を腕の中に収めた静馬は、壊れ物を扱う様な指先でそっと、彼女の髪を梳いた。

『貴女に嫌われても、好きでいてはいけませんか?』

 まだ、手錠は開く気配が無い。鈴子は心に甘やかさと焦りを同時に感じていた。
『駄目よ、貴方なんか嫌い。だから、もういいわ』
 手錠で彼の胸を押すと離れようと身体の間に隙間を空けた。
『もう、いいのよ。あの人、殺す気は無いって言ったから。行って頂戴』
 鈴子は今が暗闇で良かったと思った。頬を伝うものが何かなんて、誰にも分からない。

『あたしは、大丈夫』

 腰を抱かれた。
 攫われる様にして、抱かれて再び、引き寄せられる。
 濡れた頬に唇が触れた。顎を反らされ、躊躇いもなく唇が塞がれる。
 浅いそれは、直ぐに深い接吻に取って代わる。開いた僅かな隙間に、涙で上擦った呼吸すら奪う強さで。


 静馬は鈴子の心を手に入れた。


『手に入れた。──────漸く、貴女の全てを私のものに。もう決して離さない』


 喜びに震える静馬の鋭い一瞥が部屋の隅に飛んだ。

 カンテラに火が灯る。
 ボ、という音と共に、あの元社長に虚ろな顔が照らされた。

「やはり、来たね。……ようこそ、工藤静馬君」

 彼を倒そうと身構えた静馬の前に突き出されたモノ。
 それは明らかに何かの起爆スイッチだった。


「動かないで欲しい。義妹さんを木っ端微塵に吹き飛ばされたく無かったらね」

< 27 / 41 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop