God bless you!
「〝やました〟」
今日は1度もコアラを見ていない。
独り、水場でボールを洗いながら、こんな日もあるのかと淋しく思った。
コアラに飽きたのか。配るのに飽きたのか。俺に飽きたのか。つまり彼氏でも出来たのか。どの程度、俺に気があったのか。可愛い系か。美人系か。妄想は飛ぶ飛ぶ。そんな呑気な事でも考えていなければ、やってられない気分だった。
首に掛けたタオルで濡れたあちこちを拭って、ひと息つく。
練習試合を明日に控えて調整も最終段階である練習を前に、「汚れてた。見つけてやった。洗っておけ」と押し付けられたボールは、どこの泥を付けられたのか異様にドス黒い。
矢吹先輩の嫌がらせは、雑用で時間を削るという物理攻撃に及んでいた。実はノリが言われた嫌がらせなのだが、今日は1組で用事があるらしく、俺が替わってやったんだけど。「すぐに替わってあげるからね」と、こっそり囁いてくれた先輩女子マネージャーを、こうしてボールを洗いながら待っている。
そこに、くたびれたよれよれの制服でやってきたのが……右川だった。
リュックをパンパンに膨らませて抱えたその姿は、そのまま公園で寝泊まりしたと聞いても差し支えない斬新なスタイル。頭は普通に、もじゃもじゃだった。アホ毛はいつもの事だが、ピン&ゴムは消えている。
俺に気付いても昨日の事には一切触れず、対角線上反対側の水道で、盛んに顔を洗い始めた。うがいした。水を飲んだ。まるで他人行儀なこの沈黙が、何だか落ち着かない。切り出すのは俺か。なんて?昨日はどうも、とかって、世話になったのは右川じゃなくて、従兄弟さんの方だし。
しばらくの間、水音だけの不自然な沈黙が続いた。右川はリボンを外して、ジャブジャブと洗い始める。幾人かが水場の側を通り過ぎる間も、お互い黙々と、汚れたそれぞれを水に流していた。
突然、右川はパッと顔を上げたかと思うと、俺に向かってにっこり笑い掛ける。突然の上機嫌に、こっちはどう応えていいものかと躊躇していると、
「%◎$*△:&▽^%$○#@!」
いつかのような奇声を発して、水飛沫を俺に散らした。
「何すんだよ!」
思わずタオルを投げたら、右川がキャッチ。「わ!ベイスターズだ」授けた訳でも何でもないのに、それを都合よく誤解して、顔をゴシゴシと拭いている。俺のベイスターズ・ブルーが真っ黒に汚れた。無ぇワ。
「おまえは何だよ。今日も居残りか」
「居残りっていうか、今から環境活動だけどね」
「あー……今日だったか」
今月から始まるという環境委員会の清掃活動。カン拾い、ビン拾い、ゴミ拾い。
ノリの用事とは、これだったか。ノリは自分の替わりを見つける事が出来なかった。というか、あいつは真面目だから、最初から誰かに替わってもらおうなんて考えてもいなかっただろうな。
「俺は試合が近いから、適当なヤツに頼んで変わってもらったけどな」
「別にあんたの事情なんか聞いてないんですけど」
ムッとした事は、ここはひとまず置いといて。とりあえず。今だけは。
「あのさ、昨日の従兄弟さんって、なんて名前なの?」
「そんなの店の名前に決まってんじゃん」
俺はその肝心な店の名前を、何故かこの時に限ってド忘れしてしまい、「あれ。店の名前って、何だっけ?」と笑い混じり、恩知らずを承知でそこから尋ねる事となった。
「〝やました〟」
右川は、聞き取れないほどの小さな声で、ぷつんと呟いた。急に水音が強くなったと思ったら、右川が蛇口を全開にひねっている。これ以上何も聞かれたくない……そんなバリアを感じた。
そう来るなら、もっと突っ込んでやろうと思った、その時である。
「あ、そうだ!」
右川は、蛇口を突然キュッと閉めて、ぴょん!と、その場で1度飛び上がった。何事が起きるかと見ていると、次にリュックを漁って紙袋を取り出している。「沢村先生に、これあげるよ♪」と上機嫌で何やら寄越した。その右川の変わり身を疑いながら、恐る恐る紙袋を受け取って開けると……出た。出ました。
またギョウザだった。
「お店でもね、結構、評判なんだよ~ん♪」
あの従兄弟さんの手作りだと言う。いつだかサービスで貰った一皿、確かに旨かった。都合良く腹も減っているし。「おう。さんきゅ」ここは気持ちよく貰っておこう。
「このギョウザはね、やました特製。ニラも白菜も超こっぱみじん切りに刻んでさぁ♪野菜が多い方がジューシーじゃん?そこにニンニク♪調味料はぁ♪」
俺がギョウザを受け取った事に気を良くしたのか、右川はそのギョウザの成り立ち・作り方などを嬉々として詳しくブチあげ始めた。「へぇー、おまえ店手伝ってんのか。普通に偉いじゃん」なんて感心しながらも、何かが引っ掛かる。この急転直下の上機嫌は怪しい。
ピンときた。
右川は、決して俺に〝秘伝!右川亭・特製ギョウザ・レシピ〟を教えたい訳ではない。これ以上、昨日の事に話が及ぶのを恐れて誤魔化そうとしている。それが手に取るように分かった。
「で、あそこって誰の墓?」
秒殺。
右川から、ワザとらしい笑顔が消えた。
「親戚」
右川はもう誤魔化せないと諦めた様子で、ブスッと放つ。
こっちがそれだけでは納得できない様子を見せると、今度はチッと舌打ちした。
「ホントに親戚。あのお墓はアキちゃんのお父さんで……つまりあたしの叔父さんの墓」
「一緒に働いてた人って、あれお父さんじゃないの」
「あれは、アキちゃんに雇われてるオジさん。本当のお父さんはもう居ないの」
右川は、ぽたぽたと漏れている蛇口をキュッと強く閉めた。
「死んだのは、もうかなり前だけどね」
そこは真剣な表情である。半分怒っているようにも見えた。もっと突っ込んで聞いてやろうとしたそこに、「あ、居た」と朝比奈がこっちに向かって来る。
「お~い♪」と、右川は、また瞬時に上機嫌でハイタッチを繰り出した。
何て、変わり身の早いヤツ。
そんな具合で、右川に温かく迎えられて、朝比奈は自然に入ってきた。
「明日、試合だから、どうしてるかなと思って」
「うん」
「体育館の前まで行ってみたんだけど」
「今はちょっと先輩に言われて雑用を」
逐一、横にいる右川に聞かれながら、様子を観察されているかと思うと、恥ずかしさも手伝って、あー会話がぎこちない。朝比奈の方は、居すわる右川を放ったらかしには出来ないという思いやりを見せた。
「右川さん、今日は頭、普通なんだね」
「うん。無理矢理縛るの、みっともないって言われたから止めたの」
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