僕の知らない、いつかの君へ


「お母さんって?菜々子のお母さんのこと?」

「うん、そうだよ。もちろん」

菜々子は当たり前だみたいな顔をしていった。さらさらの髪は付き合った時よりも伸びて背中に届くくらいになっている。菜々子には長い髪がよく似合っている。

「うち、お父さんがいないって言ったよね。うちの親、シングルマザーなの。離婚して、お父さんがいなくなったとかじゃなくて、はじめからいないほう。だからお父さんは、どこの誰かもわたしは知らない」

あっさりと、誰に気を遣うでもないような感じで菜々子は言う。なんてことない、普通のことだっていう感じで。俺の家はもともと父親がいて、離婚してシングルマザーになったほう。だから俺は、父親の顔を知っている。

「お母さんが、わたしのたったひとりの家族」

「そうなんだ」

なるべく、同情や戸惑いが顔に出ないように気を付けながら俺は言った。いつも同情される側の俺は自分よりひょっとするとつらい境遇にいるのかもしれない人に出会うと、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
自分が片親だと告白したときも、いつもつい相手の表情を見てしまうから。

「お母さんね、結婚するんだって」

菜々子は、強い表情で前を向いている。菜々子の家はもうすぐそこにあるのだろう。菜々子は立ち止まる。これは母親に会わせる前に俺に話しておきたいこと、なのかもしれない。俺はやっぱり、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。

「わたし、初めてお父さんができるの。おかしいよね、この歳になってさ」

俺はなにも答えることができない。良かったね、ともいいじゃんとも言えない。おめでたいことじゃんなんて簡単に言えることじゃないのは俺が一番よく知っている。俺の母親も一度、再婚しようとしたことがあったから。

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