風薫る
「黒瀬君って有名なの?」

「学年問わず有名だよ、結構。あれだけ顔が整ってたら人気も出るよ」


そっか。有名なんだ、黒瀬君。


ちょっと意外で、有名、有名、黒瀬君は有名、と何度も心の中で呟いてみる。


舌の上で転がるそれは無味無臭だったけれど、ほんの少しの違和感を残した。


有名、だなんて。黒瀬君には似合わない気がして、どこか不思議だった。


瑞穂がニヤリと意地悪に私を見る。


「何、惚れた?」

「……オヤジ臭いよ瑞穂」


私は一目惚れを信じていない。


「昨日の今日で好きになるなんてこと、ないと思う」

「そうかなー、あたしは別にあり得ると思うけど」


……もし。


もし。仮にそうなのだとしても、この渦巻く気持ちに今はまだ、名前をつけたくはなくて。


一目惚れじゃなくていい。まだ恋じゃなくていい。


楽しかった黒瀬君との会話を余計なもので歪ませるのは嫌だから。


このままでいいの。このまま、本当のことだけでいいから。


宝物のように鍵をかけて、そっと大切に心にしまった思い出は、そのままの形で残しておきたい。


タイミングよくチャイムが鳴る。


「あ、片付けよう!」

「はーい」


ごちそうさまでした、と挨拶するのに加えて、こっそりチャイムにも感謝して拝んでおいた。
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