冷たい雨の降る夜だから
 言ったもん……。唇から零れそうになった声は、言葉にならずに嗚咽に変わっていく。

 高圧的な所があるのを知ったのは、付き合ってからだった。ただの部活の後輩として接してた頃は、そんな雰囲気は全く無かった。変化は付き合ってから些細な事から始まって、メールをすぐに返さないと機嫌が悪くなったり、呼び出されたら必ず応えないといけないという空気が漂ってきたり、少し束縛が強いのかと思ったのだ。

 だけど、一度身体の関係が出来たら……その後は拒んでも無駄だった。好きな人だったから、求められたら応えたいと思った。だけど、淡い憧れと好奇心ではだめだったのだ。想像以上の痛みに、怖くて、怯えて、何度もやめてと言ったのに、止めてはもらえなかった。

 でも、もう終わった。もう、道又との関係は全て終わったのだ。入学してからずっと、隣のコートにいる道又に憧れていたのに。折角その先輩の彼女になれたのに、幸せな時間なんてなかった。あんなに痛みに耐えて、あんなに苦しみに耐えて過ごしていたのに。それなのに、たった一行のメールで何もかもが終わったのだ。

 虚しさだけを残して。

 どの位ここで膝を抱えていたのか、不意に耳に届いた引き戸の音に翠が反射的に顔を上げると、部屋の廊下側にもう一つあるドアから男が入ってきたところだった。

「落ち着いたか?」

 その低い静かな声音に、どう答えたらいいのか判らずにぎゅっと膝を抱き締めて俯いてしまう。気持ちが落ち着いたかどうかといえば、落ち着いたのかもしれない。だけど、何かをする気力も何もかも尽きてしまった気がした。 
「やるよ」

 頭の上に何か固いものを置かれて、滑り落ちてきたのを慌てて受け止めると温かいミルクティーだった。

「ありがとう……ございます。あの……先生、ですか?」

「じゃなかったら何でここに居るんだよ」

 馬鹿か? と言うように憮然と言い返されて翠は唇を尖らせた。

「だって、見たことなかったから」

「1年は物理無いだろう。それに理系クラスじゃないと物理取らない」

 言われてみればここは物理実験室だ、ここをこの人が使っているなら物理の先生というのが一番しっくり来る。

「ずっと床に座ってたから冷えただろ。冷めないうちに飲めよ」

 言われて翠は手の中にあるミルクティーの缶を開けようとしたけれど、冷え切った手では力が入らなくて、上手くプルタブを起こせない。何度か失敗するのを見かねたのか、すっと伸びてきた手が、器用に片手でプルタブを起こしてくれた。

「帰り、平気か?」

「?」

「電車乗れそうか?」

 言われて、翠は唇を噛んで俯いた。朝の電車では、男の人が近くに居るのが怖かった。帰りも、と思うと憂鬱に思っていた。

「あんまり、平気じゃない……です」

 翠の答えに、目の前のその人は眼鏡の奥の瞳を少し寂しげに微笑ませた。

「送ってやるから待ってな」

 翠は小さく頷いた。

「せんせ、なんて名前?」

「新島、お前は?」

「翠、ヒスイの翠って書いて、すい」

 名前を答えたら、こつんと頭を小突かれた。

「名前じゃなく苗字」

「……北川です」

 わずかな微笑みと素っ気無いのに優しい言葉が、心に広がる憂鬱を拭ってくれる。定位置らしい昨日も使っていた奥の実験台でパソコンを開けた新島を眺めながら、温かいミルクティーを飲む。コーヒーとは違う、甘くて優しい味わいに不安な気持ちはゆっくりと溶けていく気がした。

 これ、わざわざ買ってきてくれたのかな? それを聞いてもきっと素っ気ない言葉しか返ってこないのだろうと想像がついたけれど、気にかけて貰えていたのかもしれないと思うと、一人じゃないのだという安心感が胸に広がっていく。

 誰かに側に居て欲しかったんだと、やっと気がついた。

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