私はミィコ
はじまり
「君の名前は?」

その声は驚くほどに甘かった。
鼓膜を震わせて直接脳を溶かすみたいな、声。
逆らえなくなるような。

私は自分の名前を答える。
彼は柔らかく笑った。
形の良い唇が再びゆっくりと開かれ音を紡ぐ。

「そう、それは良い名前だね。……でも、ここではその名前はいらないな。ここでは君は、ミィコだよ」
「みいこ」

私はその名前を繰り返した。
彼は穏やかに笑った。
長い睫毛も切れ長の瞳も整った顔にその笑みはよく映える。
「そう、君は今からミィコだよ」


私はその瞬間から、ミィコになった。




【私はミィコ】




人生は思い通りにいかないな、というのは二十歳を過ぎた頃に薄々勘付いていた。
願いは叶わないし、子供の頃に描いた人生の設計図は何もかもが当てはまらない。

まず、二十代前半で結婚して家庭を持って、と予想していたはずが独身、彼氏なし。
恐ろしいことに二十代が過ぎて、31歳にもなるのに、だ。


三十歳は大人で、悪い言い方をしたらおばさんで。
良い言い方をしたら何でも知っていて、常に余裕があって、大人。子供の頃はそう思っていた。
けれど実際になってみたらどうだろうか。

確かに、十代と比べたら経験を重ねた分は大人だろう。
しかしそれは、十代と比べて、に限る。
知らないことも分からないことも沢山あるし、余裕なんか全然ない。
やりたいことはやれていない気がするし、そもそもやりたいことが何なのかすら曖昧だし、日常に満足だってきっとしていない。
だけど何かを変えるには勇気がいる。その勇気を出すのだけは年々、躊躇っている気がした。


31歳、派遣社員。
結婚して子育てしながら~の予定が、三十代でも派遣でいいのか、と思い始めて数か月。
その派遣社員ですらいられなくなったのだから笑いごとじゃない。
派遣の首切り? 何それおいしいの? 現実が上手く飲み込めないまま無職になって。
某職業安定所的な所に通って、失業の手当をもらって暮らす日々。
29歳と31歳の壁を痛感して、新しい仕事が決まらなくて。
このまま私は死ぬんだろうか、なんて思った日に見つけたのがあの求人だった。



“住み込みの仕事、しませんか”


最初はリゾートバイトか何かだと思ったそれは。詳細が全くなく、詳しくは通話で、なんて怪しい求人で。
それでも気になって気になって。
年齢35歳まで。という表記に甘えて電話をした。
聞かれたのは年齢と特技だけ。

あとは直接面接するので履歴書を……とのことだった。
職務経歴書は不要と言われて履歴書を持って指定された喫茶店へ。

そこにいたのは優しそうな女性で、写真を撮らせて欲しいと言われた。
怪しいとは思いつつも半分自棄だった私は、それをOKして訊かれたことには全て正直に答えた。

質問の内容は、仕事の面接というよりも、お見合いか何かのような内容だった。
好きな食べものや色、異性のタイプまで……。
怪しいとは思ったけど、もう引き返せなくて、本当に。
言い訳をするならただただ、自棄だったんだと、思う。



それから家に帰っていつも通りの生活をして。
次の日、合格の連絡が来た。
そして指定された、場所へ。

都心から電車で約50分。
静かな駅で降りて、その後はタクシーに乗った。
それは、タクシー代は出すからという指定だった。

結構車に揺られて着いたのは、ドラマで見たようなお屋敷だった。
圧巻。
一言でそう言い表せるような。
大きな門がそびえ立ち、その先には庭が広がっていた。随分奥に建物がやっと見える。
引き返したくなるのを我慢して、震える指でインターホンを押す。
もう、どうにでもなれという気持ちだった。


『お待ちしておりました』


インターホン越しの声は柔らかい女性の声でそう言う。
だから私は、少しだけ安堵して開かれた門の中へと進んだ。
さすがにそこまでは広すぎない、手入れの行き届いた庭を通って、洋館のような建物へと向かう。
私が到着するのを待っていた、とばかりに扉が開きその中へと身を滑らせた。
本当にドラマみたいに赤絨毯が続いていて、左の端にメイドさんがいた。


「旦那様は、こちらです」
インターホン越しに聞いたのと同じ声がそう紡いだ。
金の髪。
それがくるくると内巻にされていて、彫りの深い顔立ちはハーフのように思えた。
お人形さんみたい。そう口から出そうになった言葉を何とか呑みこんで、私は彼女のあとを続いた。
絨毯に沿って歩き、階段を上る。
ドキドキ心臓が飛び出してしまいそう。
そして私は部屋に入った。
そこにいたのは彼だった。


「やあ、よく来たね」


彼はそう笑った。そう、そこまでが過去の記憶。
そして私はミィコになり――今に、至る。


「……ミィコって、何」

一人そう、呟いた。
鏡の中を見る。知らない私がいた。
元の茶髪とは違う、黒のロングヘア―。……これは渡されたウィッグで。
目が良いのは自慢だったのに、コンタクトまで渡されてつけている。紫の、瞳。
――これは、アニメのキャラクターか何かですか。
そう訊きたくなる。


少し前、私にこのウィッグを被せたメイドさんは、そのまま慣れた手つきでメイクまでしていった。
だから、鏡の中にいる私は、本当に知らない顔をしている。

元々童顔ではあるが、こんなに肌は綺麗じゃないし。
何のファンデーションを使ったのだろう、今は毛穴も全く見えない透明肌。
それでいて頬はピンクに色付いて唇もぽってりした赤。
何よりも奥二重で細めだった目が、ぱっちりとした二重になっている。
一番変わったのが睫毛だと思う。
元々毛が少なく短かったそれは、つけまつげの力によってくるんとカールした長いものへと変貌していた。


「すごい」


顎を上げてみたり逆に斜め下を向いてみたりして色々な角度から顔をチェックするどこからどう見ても知らない私で、思わずスマホを撮りだしてカメラを起動、一枚自撮りして保存した。
きっと、知り合いに見せてもこれが私だと分かるひとはいないと思う。


――コンコン。

すっかり私が自分に夢中になっているとノックの音が響いた。
振り返って扉へと視線を向ける。


「はい」
「入っても大丈夫でしょうか」
「ええ」
「失礼します」


聞こえたのはあのメイドさんの声。
すぐに扉が開かれて想像通りの人物が顔を覗かせた。
改めて見てもお人形みたいな人だ。


「衣装をお持ちいたしました」
「衣装?」
「はい。旦那様に聞いておられませんか?」
「……何も」
「そうですか。説明不要ということですかね。契約書は書かれましたか?」
「え? あ、書きましたけど……」
私は、先に書いて置いておいた契約書を手にとって見せる。
「それじゃあ、それと衣装を持ってお二階へ行きましょうか。衣装は旦那様に選んでいただきましょう」
「…………。私は、どうすれば」


一人納得、という風に頷いたメイドさんはくるりと背を向けてやって来たばかりの扉へと歩き出す。
私は慌てて立ち上がりながら思わずそう引き止めていた。
顔だけで振り返った彼女は、思い切りきょとんとして見せる。


「え?」
「いや、だから……私は、何をすれば? 正直何も分かってないんですけど」
「え?……あーそうですね、それも旦那様に聞いてください。私の仕事ではないので」

にこっ。そんな擬音が付きそうな程の笑みを浮かべて彼女はまた扉へと歩き出す。
早くしないと置いていくぞ、と言わんばかりの背中に私は仕方なくあとを追いかけて部屋を後にしたのだった。
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