私はミィコ
ミィコの正体
赤絨毯。
現実にそんなものの上を歩く時が来るなんて思ってもいなかった。
パンプス越しでも分かる、ふかふかという感触。
きっと高いものなんだろうな、とか。
そもそも室内で土足でいいのか、だとか。
くだらない考えばかりが頭の中で浮かんでは消える。

ドラマに出てきそうなおしゃれな手すりのついた階段を上って二階の通路を進んだ。
奥の扉の前で足を止め、メイドさんがノックする。


「失礼します、旦那さま。メアリです。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、入りなさい」

扉の奥からすぐに声が返ってくる。
この声だ、と思った。
内側からざわざわする声。
扉越しなのに、また、脳内が震えそうになった。
着ていたスーツの裾をぎゅっと掴んで揺らぎそうな感情に耐える。
……と、“メアリ”と名乗ったメイドさんはゆっくりと扉の取っ手に手をかけた。


「失礼いたします」


彼女は凛とした声でそう続けて、隔てていた扉を開いた。
中は、広い空間だった。

私が辿ってきた赤絨毯は扉の前で途切れ、中は大理石のような石の床が広がっていた。
真ん中あたりにラグマットが敷かれその上には黒い高そうなソファーが置いてある。
そのソファーに男が一人座っていた。彼だとすぐにわかる。
さっき――そう、一時間ほど前はスーツだった彼は、そのジャケットを脱いでシャツを少し着崩していた。
ネクタイがなくなった首元は第二ボタンまでが開けられている。
少し骨ばった首筋と大きな喉仏についつい視線がいってしまって、慌てて床へと視線を移す。

メアリに続いてソファーの傍まで歩いた。


「ミィコ様をお連れ致しました」
「ああ、ご苦労。キミは下がって大丈夫だ」
「……では、衣装はここに置いておきます。失礼致します」


すっと慣れたように頭を下げてメアリは手に持っていた衣装を近くの棚の上へと乗せ、部屋を出ていった。
一人立ち尽くす私を置いて。


「さて、」

どうしていいか分からない。
すっかり固まる私を前に、彼はそう呟いて腰を上げた。
カツ、と革靴の音が響いて距離が縮まる。
不思議なくらい心臓がドキドキとうるさい。


「顔をあげなさい」
「…………」

やっぱり彼の声は直接脳内に響く。
逆らえなくて顔を上げた。
意思の強そうな瞳とぶつかるとふっとその目元が和らいだ。


「ふむ。やはり……想像以上だな」
「え?」
「いや。気にしないでいい」


ふと紡がれた言葉が気になって拾うと遮られる。
すぐ目の前で立ち止まった彼は、じっと私を見ていた。
まるで品定めをするように。


「……あの、何をすれば……?」

出した声は緊張から微かに震える。
何をさせられるのか全く検討もつかない。


「まずは、その手に持っている契約書を受け取ろうか」

彼はそう片手を差し出した。
私は持っていたのを忘れかけた紙をその手に渡す。

ん、と小さく頷いて彼はその書面をざっと見つめた。


――試用期間、一週間。
給料10万円。
プラス、交通費支給。

住み込みのため家賃は浮くし、食事も出るらしい。
しかも、試用期間をクリアすると更にお給料が上がるとの記載もあった。

ハッキリ言って、怪しい。
でも。
同じくらいこれを逃すのは惜しいという気持ちもあった。

派遣時代は月の手取りが20万円すらいかなかった。
そこから家賃を払って、光熱費を払って……とやっていくと残るのはほんの僅かなお金だけ。
同い年の同期は夜のバイトをしていると言っていたし、そういう人は多いと思う。

だから、多少怪しくてもやってみようと思った。
そこに詳細が一切なくとも、一週間まずはやって合わなかったらやめればいいし、と。
やっぱり私は半分以上が自棄で、日付を書き、署名と捺印をした。


彼はそれをどう思ったのだろうか。書類の上を視線が滑るのを眺める。


「では、これを持って契約とする」

動いていた視線が止まり、紙が退けられて視線が合う。
彼は柔らかくそう告げると一度私から離れてその書類を片付けにいった。

向けられた背中を目で追うと、すぐにそれはこちらを向いて帰ってくる。


「じゃあミィコ。早速だが、服を脱いでくれ」
「……は?」

え、聞き間違い? 
きっと今の私はぽかんとした表情になっていると思う。

この人今、なんて言った…? 
服を、脱ぐ?


「聞こえなかったのか」


彼の整った顔が少しだけ不機嫌そうに歪む。


「…………。……脱げって、ここで、ですか?」
「当たり前だろう。早くしなさい」
「でも、」
「もう一度だけ、言う。服を脱ぎなさい」


少しだけ怒りを帯びた声。
譲る気はないと意思の強い瞳がそう言っている。


「出来ないなら、君はここでクビだ」
「っ、……わかりました」


そう言われてしまっては脱ぐしかない。
……ミィコ、はもしかして愛玩人形か何かなのか、と考えが過ぎる。

急かすような瞳に煽られて、着ていたスーツのジャケットを脱いだ。
するり、と布の擦れる音が響く。
ジャケットを一先ず床に置いて、着ていたシャツのボタンへと手をかける。
それを一つ一つ外していく。
突き刺さるような視線を感じて手が震えた。
……彼が、見ている。

下着は可愛いのを付けていたっけ、だとか。
ちゃんとムダ毛の手入れはしたっけ、だとか。
女としてどうなんだろうということばかり頭の中をぐるぐるとめぐる。


「…………」

すごく緊張していた。
心臓が飛び出しそう。
そんなに見ないで、と言いたくなる。

それでも何とかボタンを外して、私はシャツの袖から腕を抜いた。
それを下に置いて、それに重ねるようにスカートとストッキングも脱いで床へと置いた。


「し、下着も、ですか……?」

聞いていいのか分からなかった。
でも、ほぼ初対面の異性の前で全裸になるのはさすがに無理だった。
下着姿になるのでもいっぱいいっぱい。

彼は眉一つ動かさない。
私の下着姿ってそんなに色気がないのかと心配になる。


「今日はいい」


そう言って視線が外れた隙に自分の体を見遣る。
今日は? という疑問は考えても仕方がない。
私のカラダ。
もう少しボリュームが欲しいなと思うBカップ。
それを包む淡いグリーンの下着はぎりぎり上下お揃いだった。
良かった。
最近少しぷにっとしてきたお腹。
女性らしい肉付きとは無縁の太もも。
……細いね、とは言われるものの色気は確かにないのかもしれない。


「これを着なさい」

彼はそう、あのメイドさん――メアリが置いていった衣装を私へと差し出した。
綺麗に畳まれていたそれを広げてみると――黒い、衣装だった。
真っ黒のビスチェに近いキャミソールと、それと同じ黒のフリルスカート。


「え、これ……しっぽ?」

そう。
そのスカートにはやっぱり黒色の太いしっぽがついていた。
触ってみるとふわふわだ。


もしかして、ミィコって……いやな予感がして彼を見上げる。


「どうした? 着方が分からないのか」
「いや、えーと……着ます」

また不機嫌になってクビと持ち出される前にと与えられた衣装を着る。
上下着てみると、彼は満足そうに笑った。


「ふむ……やはりそっくりだ。これも頼む」

そう言って追加で渡されたのは、腕にはめる……指のないアームカバーというかグローブというか、と呼べるもので、それからカチューシャ。
そう、猫の耳のついた……。


「あの、ミィコさんの写真ってありますか?」
「ん? 見せていなかったか……少し待て」

彼はポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。
少し操作したかと思うとそれを私へと見せた。


「わぁ……」

真っ黒な猫が、そこには堂々と映っていた。
触らなくても分かるようなスベスベの毛並み。
するどい紫の瞳。
これで全ての辻褄があった。
私の仕事は……どうやら猫になることらしい。


「可愛い猫ちゃんですね……?」
「そうだろう? とてもかしこい子だよ」

ふ、と彼の瞳が細められる。
愛しい、とその視線はそう言っていて不覚にもドキリと心臓が高鳴った。


「あ、えっと……つけますね」

その表情を見ていられなくて、思わず視線をそらし、持っていたままだったカチューシャを頭にはめた。
そして、親指をひっかけてグローブをはめる。
……まさか、三十歳を超えてコスプレをするとは思っていなかった。
でも。

「ああ、ミィコ……!」

耳をつけたからか何なのか、彼はそう感動したように叫んで嬉しそうな顔を向けた。
いやいや、ミィコのわけないだろ、と冷静な私が心の中で突っ込むのと同じぐらい、そんなに猫が好きだったんだなと思ってしまう。
亡くなったんだろうなと思って、ペットロス状態なのかなと想像する。
やっていることは頭がおかしいとも思うけれど、この格好でいるだけで10万ももらえるなら悪くないと、そう思う。


「ミィコ、さあ――これを」


彼は一度私に背を向けると、嬉しそうに何かを持ってきた。
チリン、と音が鳴りついそこに目を向ける。
鈴のついた、真っ赤な首輪だ。


「さあ、顎を上げて――」


戻れなくなるような、気がしていた。
でもやっぱり逆らう気にもなれなくて――


「ああ、よく似合っているよ。……おかえり、ミィコ」


首輪のベルトをとめると、彼は愛しげにそう呟いた。


「た、ただいま?」
だから思わずそう返したのに、私が言葉を発した瞬間、彼の顔は不機嫌になる。


「ミィコは、言葉は話さない」
「う……」

そりゃそうでしょう、猫なんだもの。


そう言いたいのをぐっとこらえる。
少し、……ううん、かなり抵抗はあった、けど。


「にゃあ」

やっぱり自棄でそう鳴いた。
瞬間、彼は本当に嬉しそうに笑う。

「お帰り、ミィコ」

そして腕が伸びてきて私は、その腕の中に閉じ込められた。

とっとっと心臓が鳴る。
きっと聞こえてしまっている。

体温、香り、腕の強さ。
何もかもがドキドキしてしまう。

どうして。
久しく異性にこうして抱きしめられることがなかったからだろうか。
全身を勢いよく血液が巡っていく。
体温が上がったのが、自分でも分かった。


「ミィコ、もう俺から離れないと約束してくれるか?」

体温が離れる。
それだけでほんの少しだけ、寂しいと思ってしまった自分がいやだ。
離れて、かちあった瞳は泣きそうに揺れる。
だから私にはもう、頷く以外の選択肢はなかった。


「にゃあ」

こくり。
首を縦に振ってそう鳴いた。


「いいこだ。ご褒美をあげよう」

彼はそうまた微笑んで大きな手のひらで頭を撫でる。
猫にしているつもりなんだろうそれは、何故だかやっぱり私の体温と心音を上げる。

そうして油断していると、今度は私の頬へと柔らかな感触が触れた。――どうやら、口付けられたらしい。


「っ」

ボッと顔から火が出そうになった。
そのくらい、ハズカシイ。
でも慣れなくちゃ。
私はもう、ミィコなんだから。


「ミィコ、今日は疲れただろう? お風呂に入って寝ようか」

優しく髪を撫でられてそう問われる。
一緒に入るのか? と怖くなる。


「あ、あの、……じゃない、にゃ、にゃー」

つい口を開きかけると眉間に皺が寄って、焦って言い直す。

彼は察してくれたのか、今日はメアリに入れてもらいなさい、とだけ呟いた。
だから私はもう一度、にゃあ、と鳴いた。
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