それはバーの片隅で

 バーの名前は「gemütlich(ゲミュートリッヒ)」。
 ドイツ語で「気楽に」だとか「居心地のよい」といった旨で使用される単語だそうだ。
 いつも穏やかに迎えてくれるマスターがいる店にぴったりだと言ったら、マスターは気恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに笑ってくれた。
 若い頃ドイツに留学したことがあるらしく、店を持つならこの名前にしようと決めていたそうだ。

「私も若い頃にそういう熱を持てる何かがあればよかったんですかね…」
「まだお若いじゃないですか」
「そうですか?色々考え直すにはもう遅いかなって…」
「私が酒の勉強を始めたのは29でしたよ」
「え、ほんとですか?」
「ええ」

 俯いていた顔を上げて、思わず身を乗り出す。
 もうひと口とグラスを持ったところで、空っぽなことに気が付いた。
 
「あ。しまった。ダイキリおねがいします」
「4杯目ですよ。今夜は大丈夫ですか?」

 優しく微笑んだマスターはなかなか心を刺してくれる。

「うっ。毎回調子きくのやめません?」
「楽しく飲んでいただきたいだけですから」

 マスターに他意はない。
 でもその笑顔が、勝手に刺さる。色々と思い出すだけに。



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