ただひとりの運命の人は、私の兄でした
「さて。家を出ていくって、どういうことかな」

自宅に着いて着替えを済ませると、光希にリビングに呼ばれて開口一番そう問われた。

「え、と……」
心臓が激しく波打ち、まともに話せなくなる。どうしよう、どうしよう。喉がからからに乾いて苦しい。
私のそんな状態を見かねたのか、光希がふっと苦笑する気配を感じた。
「別に怒っているわけじゃないんだよ。ただ、どうしてなのか知りたくて」
「その、……迷惑、かけたくないから」
「迷惑?なんで?僕たちうまくいってるよね?僕、何かしちゃったかな」
「光希は何もしてない」
「じゃあ何で?」
空気が重くて窒息しそう。
本当の事なんて言えるわけない。
「……別のところに、住みたいなって思って」
「そっか。じゃあ、推薦が決まったら一緒に物件探ししようか。ちょうど僕もこの家以外にも、もう一軒くらいマンション持っててもいいかなって思ってたんだ」
「え?」
話が通じていない気がする。光希の口ぶりだと、私と一緒に住む前提で話を進めていないだろうか。
「あっ、あのね!光希とは別々に暮らしたいなって思って」
「君はまだ未成年だろう?しかも女の子だ。女の子の一人暮らしなんて賛成できないな」
「ちゃんと、セキュリティのしっかりしたところにするから」
「ここ以上にしっかりしたところなんて見つかるのかな」
「っ、……でも、私だってもう自立しないと」
「やっぱり僕が何か君に迷惑を掛けたのかな。そんなに嫌がるなんて」
「み、光希は何もしてないよ!」
「じゃあ、何も問題無いだろう」
光希に口で勝てるわけが無かった。ぽんぽんと出てくる言葉についていくのに必死で、結局私は手詰まりとなった。
「とにかく今は推薦を取れるようにしっかり勉強しなさい」
「……はい」
くしゃくしゃと頭を撫でられて、私は大人しく返事をするしかなかった。
光希が私を保護者として心配してくれるのは嬉しいけれど、それ以上に最近は恋心が抑えきれなくて心が張り裂けそうなのだ。
妹の仮面をうまく被れているうちに早くここから逃げ出したい。
そして出来れば「いい妹」というイメージを光希にはずっと持っていて欲しい。私は臆病な卑怯者なのだ。
叶わない恋心を抱えながら、毎日一緒に暮らすのはもうすぐ限界を迎える気がする。

一人暮らしの件は、光希に事前に知られてしまうときっと計画を握りつぶされてしまうだろう。それなら水面下でこっそりと話を進め、事後報告するしかないな、と私は密かに決意を固めていた。
それがきっと、お互いのためなのだから。

「あおいの兄ちゃん、男の俺から見ても格好良かった」
翌日の昼休み、私の隣でおにぎりをぱくつきながら、藤井君はしみじみと呟いた。光希のことを褒められるのはやっぱり嬉しくて、私は頬が緩んでしまう。
「そう?本人に伝えておくよ。きっと喜ぶから」
「うん、男らしいし、余裕に溢れてるし。あのさ……」
「ん?何?」
私が問いかけると、藤井君はしばらく逡巡したのちに、意を決したように私に向きなおった。
「こんなこと言ったらごめん……あおい、兄ちゃんのこと好きなんじゃないか?恋愛対象として」
核心をついた一言に、私は脳天に一撃くらったような衝撃を受けた。

どうして。なんで。

うまく隠していた筈なのに、どうしてバレてしまったんだろう。でも、何とかうまく切り抜けなきゃ。
私はごくりと唾を飲み込み、何とか平常心を取り戻した。

「なにを、言ってるの……」
「あおい、誤魔化すの下手すぎ」
藤井君はふっと笑い、そんな言葉を口にした。
「……!!」
「俺、昨日分かっちゃったんだよ。あおいは兄ちゃんのことが好きなんだなって。気が付いてないだろうけど、あおいはあの人を見る時に好きで仕方ないって目をしていた」
「えっ……」
「でも、あの人の方もそうだった。あおいのことが愛しいって目で見ていた。二人とも、お互いのことが好きなんじゃないのか?」
思いがけない言葉に私は言葉を失った。私はともかく、兄がそんなことある筈が無い。
「……実は、藤井君の言う通りなの。私、兄が好きなんだ。小さい頃からずっと」
「うん……やっぱり、だな」
「でもあの人は私を妹としてしか見てないから。それが辛くてね。あの家から逃げ出したいんだ。それに、私がお荷物になっているっていう自覚もあるし」
「そうかな?むしろあの人はあおいと一緒にいたいんじゃないか?」
「まあ、責任感の強い人だからね。でも、私に対して恋愛感情は一切ないよ。……ばかみたいでしょ、私」
頬をかりかりと掻きながらおどけて見せたけれど、藤井君は笑わなかった。
「……無理するなよ。あおい、辛かったんだな」
「藤井君……」
「俺、友達としてでいいから、あおいのことを支えられたらって思ってる。何かあったら、頼ってほしい」
藤井君の瞳は真摯な光を湛えていた。何の計算もない彼のまっすぐな言葉は、私の心をあたためてくれた。
「有難う、藤井君……」
「まあ、大したことは出来ないけど。あおいの力になれたら嬉しい」
照れたようにはにかむ笑顔がやけに綺麗だった。
藤井君を好きになれたら、きっと幸せになれるのに。
私の一部なのに、どうしてこころは言う事を聞いてくれないのだろう。うまくいかないことばかりだ。

それからしばらくして、私は無事に大学への推薦を手に入れることが出来た。
絹も同じく文学部への推薦が決まり、私たちは手に手を取って喜びあった。
藤井君は見事医学部への推薦を勝ち取り、皆から大絶賛されていた。医学部への内部進学者はごく少数なのだ。もしかしたら外部からの受験の方が簡単かもしれないといわれているくらいに難関だ。
絹と良い感じにお友達を続けている本田君も法学部への推薦が決まり、私たちは放課後にファミレスに立ち寄り、ささやかなお祝い会をした。

「かんぱーい!!」
それぞれに用意したグラスをかちんと合わせ、ジュースで乾杯する。
こんなに気の置けない仲間と合格を祝い合う事が出来るなんて、私にとっては夢みたいだ。
「みんな良かったよねぇ、希望学部に受かってさ。大学に行っても仲良くしようね」
絹がそう口にすると、皆大きく頷き合った。
「……あおいはどうするんだ?家、出ていくのか?」
藤井君が心配そうに私に問いかけてきた。しかし絹も本田君も初耳だったから思い切り驚いていた。
「えぇ!?あの高級マンション、出ていくの!?」
「き、絹……声が大きいって。実はこっそりそんなことを計画していてさ。もうこれ以上兄に迷惑かけられないから」
出来るだけ軽い感じで言ったけれど、私の言葉に藤井君は沈痛な表情を浮かべていた。
「何かあてはあるのかよ?」
本田君が腕組みをして問いかけてきたけれど、私は肩をすくめて笑って見せた。
「ううん、全く。どうしたものかなあと。兄に知られたら反対されちゃうし」
「……じゃあさ、私とルームシェアしない?」
思いがけない絹の一言に、私は目をぱちぱちと瞬かせた。
「ふふ、私さ、大学生になったらおじいちゃんが持ってるマンションの一室に住むんだ。でもそこってファミリー用で、大分広くて寂しいなあって思ってたの。あおいとならうまくやっていけそうだし」
話を聞いてみれば、絹の一族は代々不動産業を営んでいて、物件もたくさん持っているとのことだった。そのマンションの一室は絹のおじいちゃんが合格祝いとして贈ってくれることになっていたようだ。
「ほんと……!?あのっ、それ、本気にしていいなら、私めちゃくちゃ喜ぶよ……!?」
「ぜひ本気にしてよ!」
「私、家事全般出来るから!掃除洗濯は得意で、食事はまぁまぁだし、可能な限り尽くす!!絶対に絹には迷惑かけない!家賃だって払うよ、お願い、住まわせて!!」
私のあまりに必死な様子がおかしかったのか、その場にいた三人は大爆笑した。私ははっと我に返り、恥ずかしさに耳まで熱くなるのを感じた。
「お前、ここまで熱烈プロポーズされたら一緒に住むしかなくない?」
本田君はまだひぃひぃと笑いながら絹の肩をぽんぽんと叩いた。
「……絹と一緒っていうなら、あおいのお兄ちゃんも許してくれるんじゃないか?」
藤井君の柔らかい表情に励まされて、私もこくりと頷く。
「うん、……頑張ってみるよ」
何となく未来への扉が開けた気がした。
これがいいことなのか悪いことなのか分からないけれど、もう立ち止まっている暇などないのだ。

そこから本格的にルームシェアの話が進んだ。
あまり気が進まなかったけれど、私は母にこの件を相談した。一応、彼女は私の親権者なのだ。
「光希ももうそろそろ結婚とか考える時期でしょう?だから、迷惑かけないように出ていきたいの」
私のもっともらしい訴えに耳を傾けると、母も思うところがあったようで納得してくれた。
「そうねぇ、光希さんにはあおいの面倒をずっと押し付けちゃったもんねぇ。潮時かもね」
ルームシェアの件も、すんなりとオーケーしてくれたのでほっとした。
今まで放っておいた罪滅ぼしとかなんとか言って、同居に必要なお金はいくらでも出すと言ってくれた。
「でも、それ……結局、今の旦那さんのお金でしょう?ダメだよ、そんなの」
「ううん、お母さんだってあおいの為に貯めてきたお金があるのよ。それを使うのは今でしょ!」
カラカラと笑って、大金が預金された通帳をぽんと用意してくれた。
頼りになるのかならないのか、さっぱり分からない母だがそれでも今は有難かった。
「有難う、お母さん」
「どういたしまして。光希さんにも、ご挨拶に行かなきゃねぇ」
母のその言葉に、私はさーっと顔色を変えた。
「あの、私の引っ越し当日に一緒に来てくれればいいよ」
「あら、そう?」
特に深く追求する事も無く、母はあっさりと私の意見を了承してくれた。こういう時、母が軽い性質で良かったと心底思う。

光希には、まだ引越しのことは話せないでいる。
推薦が決まったことは伝えてある。まるで自分のことのように光希は喜んでくれた。
「ここからあの大学に通うとなると、えーと、地下鉄にまず乗って……」
光希は早速スマホのアプリで最短ルートを調べていて、その姿にずきんと胸に痛みが走った。

ごめんね、ごめんね。

隠していてごめんね。ダメな妹でごめんね。でももう苦しくて、耐えられないんだ。
光希が私を溺愛してくれているのは嬉しい。でも、私が求めているのはそんなんじゃない。
キスだってしたいし、それ以上のことだって。
こんな汚らしい欲を抱えたまま光希のそばになんて、もういられない。

「入学式には、僕も行こうかな」

幸せそうに笑う光希に何と答えて良いか分からず、私は曖昧に笑って返すしかなかった。
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