ただひとりの運命の人は、私の兄でした
幸せになるために

離れても

「絹、いつまで寝てるの?遅刻するよ」
「も、もうちょっとだけぇ……」
「進級できなくても知らないよ」
「お、起きます……」
絹のベッドに座り、私はゆさゆさとベッドの上の塊を揺さぶる。
寝起きの悪い絹を起こすのは一苦労だ。やっともぞもぞ動き始めた塊を見て、私はふっと頬を緩ませる。
「もう朝ごはんも出来てるよ。早く食べよう」
「あおい……結婚して……」
「何バカなこと言ってるの。さ、早く早く」
ポンポンと絹の頭を優しく叩いて、私はゆっくりと立ち上がった。

卒業式の次の日から、私は絹とルームシェアを始めた。
「何でも任せてよ、私って意外としっかりしてるからさ!」
絹はそんなことを言って張り切っていたけれど、頑張りが続いたのは最初の三日間だけ。
それ以降、私がお母さん、絹が子供みたいな役割になった。
絹はそれを申し訳なく思っている様だったけれど、私としてはむしろ大歓迎だった。
絹のおじいちゃんが所有するというマンションは、大学生が住むにしてはずいぶん立派なマンションだった。
そこに格安でルームシェアさせて貰えることになっているのだ。掃除洗濯食事の準備はすべて引き受けたいと思っているくらいだ。

一方の絹は家事全般が苦手だった。
「半分こでやろうよ、ね!!」
なんて最初は張り切って当番表なんかもエクセルで丁寧に作っていたっけ。
それがいつしかその殆んどを私が受け持つようになり、絹はやがて当番表を作るのをやめた。
「……すみません」
蚊の鳴くような声で謝罪する絹は、何だかとっても可愛く見えた。
「いいの、いいの。私、家事は得意なんだ。だから任せて」
「私もできるときは、……がんばるから……」
「期待してる」
くすくすと笑う私に、絹はますます身体を縮こまらせてぺこぺこと頭を下げた。
それに、家事は無心で夢中になれるものだから、正直に言えば有難いのだ。
だって、暇があると思い出してしまうから。
烏の濡れ羽色のような美しい黒髪、陶器のような白い肌、琥珀色の蕩ける様な瞳。
私を優しく呼ぶ、あの低くて甘い声。
―――そう、光希のことを。

光希の家から引っ越して以来、私は光希とは会っていない。あれからもう一年が経っていた。
大体、他人なんだからもう会う理由など無いのだ。

『妹』として溺愛されていた日々は幸せだったのだとつくづく思い知らされた。光希はいつも絶対的な安心感で私を包んでくれた。
私はそれに甘え切っていたのだ。……その大切さも知らないままに。私は何て傲慢だったんだろう。

私というお荷物がいなくなって、光希も少しは本腰を入れて婚活を始めただろうか。引く手あまただから、光希がその気になればすぐに話はまとまるはずだ。
そう言えば、あのお見合いは結局したのだろうか。
写真に写っていた女性は光希にお似合いだった。……羨ましいくらいに。

光希はますます事業で成功を収めている様だ。
たまに経済誌などに掲載されるので、その時には必ず雑誌を手に入れるようにしていた。保存用と購読用と二冊だ。
自分の部屋でそれを広げて光希の姿を見ると、胸がいっぱいになって幸せになった。
しばらく会ってないだけだというのに、光希は前より一層きらきら輝いて見えた。

雑誌をぱらぱらとめくっていると、光希が元気そうにしているのが感じられて、嬉しいのと同時に言いようのない寂しさが胸を襲った。
もう、自分の手の届かないところに行ってしまった。
それは私が光希に望んでいたことだったのに、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。

この雑誌を読んでる人たちは知ってるのかな。
光希はこんなに格好つけてるけど、実は甘いものが大好きなんだ。
太りやすいからと言って我慢しているけど、ブルーベリージャムとクロテッドクリームたっぷりのスコーンに目が無い。
漫画を読むのも大好きで、大好きなシリーズをよく大人買いしていた。
バスバブル集めに凝っていて、新作が出るとすぐに手に入れてたっけ。

それから、それから……

ぽた、ぽたと雑誌の上に何かが垂れてき私ははっと我に返った。
自分の目から涙が流れていたのだ。

「みつ……き……」

離れてみたところで、光希への恋心はちっとも消えてくれない。
紙面で柔らかく微笑む彼の表情を見ると、ますます涙が溢れてきた。
ねえ、もう私はきっとあなたの笑顔を間近で見る事なんて無いんだろうね。
あなたの傍には、今は誰がいるんだろう。
せめてあなたのなかで、私は“いい妹だった”って思われてるかな。

私は声を殺しながら泣き続けた。

私は大学に行ってからは、変な誤解を受けることが殆んど無くなった。
大学というところは全国から色々な人が集まって来て、その中にはド派手な人も奇抜なルックスの人もいる。
とても個性豊かなのだ。
私のルックスは制服を着てこそ目立っていたのであって、私服で通学するようになるとその個性たちに紛れてしまう。
それは私をとてもほっとさせていた。
それまではとにかく“目立ったらダメ”という小さな枠組みの中で生きていた気がする。
普通であることが一番大切なのだ。
お金持ちもダメ、貧乏もダメ。髪形がすごく可愛くてもダメ、変でもダメ。性格が激しくてもダメ、消極的もダメ。
とにかく中庸を求められていた。
そういう点でいくと、私はダメ揃いだっただろう。肌は地黒、背はひょろんと高く、性格は引っ込み思案。いつも自分がみんなと違う事に劣等感を持っていた。
それが大学に入ったら、そんなことから解放されたかのように自由を得た。自分のやりたいように楽しむことができる。
ちゃんとそれに応じた責任は生じるけれど、もう息苦しさを感じることは無い。

そのせいだろうか、絹から「性格が明るくなったし、表情も柔らかくなった」と褒められるようになった。
「そうかなぁ?」
「うん。前は周囲を警戒しまくっていたけど、今はそんな必要も無いしね。あおい、すごく綺麗になったよ」
「もう……やめてよぉ……」
「あはは、ホントだよ」
絹は気を使ってくれているのかもしれないが、それでも褒められると素直に嬉しかった。
「だってさ、実際、男の子から声を掛けられることが多くなったでしょ?」
「う、……まあ、たまにだけど」
「たまにどころか、しょっちゅうじゃん!!」
絹のからかいに私は顔を赤くして俯いた。
確かに大学に入学してから、何かと男の子から声を掛けられるようになったのだ。
「今度、ごはん食べにいかない?」とか、「連絡先、交換してもらえないかな?」と言った調子だ。
以前だったら『遊び人のあおいと楽しむために』誘いをかけてくる人ばかりだった。
しかし最近は全然違う。誘ってくる人たちは、私に絶対失礼な事を言わないし、むしろ誠実な態度で接してくれる。
「そりゃそうだよ!あおいに嫌われたくないからでしょ」
「そうなのかなぁ。あ、もうそろそろ家を出ないと」
「おぉ、そうだった!」
私たちは二人揃って御馳走様と手を合わせ、急いで食器をシンクに下げた。
「今日は“ごはん会”だね」
「うん、久々に皆で集まるから楽しみ」
私と絹は家の戸締りを確認し、今夜のごはん会に思いを馳せた。

ごはん会というのは、高校時代から仲良くしているメンバーでたまに集まって夕食を食べる日のことだ。
メンバーは、絹、私、藤井君、本田君。
絹、私はキャンパスが同じだが、藤井君、本田君とは違う。
学部も違いなかなか会う機会が無くなったため、こうして定期的に都合を合わせて集まっているのだ。
結局絹は本田君と付き合ってはいないようだ。『性別を超えた親友』というポジションに落ち着いたらしい。
私と藤井君も、恋愛関係にはならないまま高校時代から仲良くしている。
久々に皆で会える事に、私は胸を弾ませていた。
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