屋上のあいつ
*   *   *
 三日の後、俺は再び屋上へ上る決心をした。今日は勇も塾行きで帰り道は一人きりである。呼び止める者もいないし、そろそろ行っても良い頃合いだろう。
 朝、制服に着替えている時、ふとちらかった机の上に、消しゴムのかすにまぎれて小石がちょこんとのっているのが目に入った。数日前、恵比寿神社で鳥居の上から落ちてきた石。何気なく持ち帰って、そのままだった。
 さっと手を伸ばしてみると、触れた指先からしんとした冷たさが伝わってくる。つまみあげて手の中で転がし、そのままポケットにつっこむ。ぽん、と上からたたいてその存在を確認し、よしと息を吐いてカバンを持った。
 帰り、教室の様子を見計らって、屋上へいこう。コートと手袋、マフラー、そしてホッカイロ。防寒対策もばっちりだ。
 通学途中、船の中で電波状況の悪いテレビが言うには、どうやら雨も降らないらしかった。暗くなったら星がきれいかな、そんなことを考えていたら、ケンカの後に会うという事実も忘れてしまいそうになる。
 なんとなく、うまくいきそうな気がした。全然根拠はなかったけれど。
 授業は終業式も近いということで、みんなそわそわと落ち着きがなくなり、真面目に聞いている奴はほとんどいなかった。補講と夏休み顔負けなぐらいの量を出される宿題のせいで、大半がつぶれてしまうにせよ、そろそろ冬休みなのだ。しかも、受験生になる一歩手前の、高校時代最後のゆっくりできる年末年始である。再来年は全員強制的に一月一日からセンター試験直前の元旦模試があり、朝も早くから弁当を持って小倉にある予備校に行かなければならない。受験生には正月もいらないって、悲しい現実だ。
「じゃあ、とりあえず今日は宿題をくばりまーす」
 明るい声で何人もの先生が分厚い宿題プリント冊子を時間ごとに配っていく。その多さにうなりながらも、俺は授業中にそれを片付けることに専念した。どうしても、宿題は年内に終わらせておきたい……それに、授業中って暇だし。
 まずは簡単な日本史から手をつけ始め、その日の掃除時間にはもう、九割方は終わっていた。社会系の宿題って、やろうと思えば秒殺だけど、後でテスト前に覚えるのに時間がかかる。いつもテスト直前にやったほうが効率がいいんじゃないかって思うけど、どうしても一番はじめに片付けてしまうのだ。
 終礼中に残りの問題を終わらせ、礼をした後にすぐに着席して丸付けをはじめた。内容は、授業で進んだ戦国時代まで、比較的簡単な問題しか並んでいない。
これでテストになったら、ちょっと難しいのだすからなあ。先生って、そんなところがずるいと思う。まあ、宿題が全く出ないでテストだけする世界史よりは、ましか。
 最後の一問(答えは「関ヶ原の戦い」だった)に丸をつけ、顔をあげると教室には数人の生徒がいるのみだった。みんなで教卓のまわりに集まって、大学調べをしている。
 よし、良い感じに少ない人数だな。日本史の冊子を鞄にしまい、机の上を片付けてコートを着る。マフラーと手袋を持って、するりとベランダへ出た。
 冷気と夕陽が、かっと頬をさし、まぶしさに目をしかめる。少し足取りが重かったが、体はまっすぐに屋上へ上る階段へと進んでいった。決心ができているから、ふらつくことは、ない。
いち、に、さん、し……。
 意味もなく、登りながら段数を数える。温に会った後も会う前も、何回もここを上ってきたというのに、何段あるかなんていままで数えたこともなかった。
 空が近づいてくる。青紫と赤が混じったようなその色は、見ていてなんとなく不安な気持ちにさせられる。大丈夫だ、何も不安に思うことなんて、きっとない。
最後のいっちだん、と。左右の壁がなくなり、広がった空には薄い雲がのんびりとのびていた。ふっと貯水タンクのほうを向くと、そこに彼の影はない。小さくため息をついて、てくてくと貯水タンクに向かっていった。十分予想はしていたけれど、なんだか拍子ぬけしてしまう。
耐久戦か。
 背中に貼った、ホッカイロが心強い。温が現れてくれるまで、これからのんびりと、待とう。貯水タンクの上にのぼって、白い息を吐きながら。コートのポケットに突っ込んでいた手袋をとりだし、中に手を入れようとした瞬間、ふと目指すものの下に見覚えのあるノートが一冊、落ちているのが目に入った。風で飛ばされないようにであろう、ノートの上には大きめの石がのせられていた。きっと、温だ。中をみたのだろうか。手袋から右手を抜き、石をのけノートを拾った。ぱらぱらとページをめくる。多分智奈さんの手紙、これにはさまっているはずなんだけど……。
あった。
 薄い桃色の紙はノートの一番後のページにはさまっていた。しかし、何か、違う。よく見ると智奈さんの書いた文面が外側を向いて折りたたんであった。誰かに見られたのか、そう思い急いで開いてみると。
『片倉、終業式の日、放課後に来い』
 汚い字、しかも青い色のチョークで殴り書きがしてあった。
温だ。誰が書いたのかすぐに分かる。よく見ると、紙の中央には点々と、ところどころしわがより、表面のインクがにじんでいた。こんな染みは、手紙をもらった時点では全くなかったはずだ。ノートをここに忘れていった日から、雨も降っていないはず……証拠に、手元にあるノートには全然濡れた形跡はなかった。もしかして、これは。
俺は温のメッセージの裏、青チョークの文字よりはるかに細かい黒インクの文面に、思わず目を通していた。
「……うわ」
 すぐに、読み終わり。俺はそんな言葉を漏らして、さっと手紙から、視線をあげた。そのままゆっくりと周囲を見渡す。温の姿は、ない。きっと温、これ読んだんだ。
 ポツポツと残るしみの痕にそっと触れながら、俺は再び手紙を裏返した。『片倉、終業式の日、放課後に来い』。青チョークの文字はどこまでも不器用だ。
彼に、温に今何が起こっているのだろう。
ノートと手紙を右手に持ち、俺は勢いよく貯水タンクにかかるはしごへと、手をかけた。
 こんな所にメモを置いて、俺が今日までに気づかなかったらどうするつもりだったのだろう。いや、もしかしたら彼は俺がもう一度ここに来るということを確信していたのかもしれない。何なんだろう、良いことか、悪いことか。でも、何も起こっていないわけはない。そうだったら、こんなメモ書きなんて残さないはずだ。たぶん今、温はこの屋上にはいない。いや、屋上だけじゃなくて、この学校のどこにもいないだろう。そんな、気がする。
終業式は、もうすぐだ。明日一日、授業があって次の日である。てかあいつ、終業式の日、知ってるんだ……まあ元生徒だしな。
 昔と日取りが変わってないのだろうか、そう思うと同時に、タンクの上へと立った。空の半分が紺色に染まっている。そろそろ、日が落ちる。眼下に広がる街にももうきらきらよ街灯が輝き始めていた。しかし、一日を終えようとする太陽とは違い、俺の体はどこかむずむずと動き出しており。
「なんかが、おこっとるんだ」
 叫ぶ勇気はない。運動場では部活生が息を切りながら走っているし、ここは職員室からも丸見えだ。叫んだら「何しとるんか!」って、叫び返されるにきまっている。でも、心の中でつぶやくだけでは、足りなくて。
「なんか、おこっとる」
 自分だけに聞こえるぐらいの小さな声で、かみしめるようにつぶやいた。
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