屋上のあいつ
そして終業式の朝がやってきた。珍しく、妙に早く目が覚めた。まるで、遠足や修学旅行に行くその日みたいに、ぱっちりと。いつもより早く行ってもどうしようもないことはわかっていたが、いてもたってもいられなくなり、すぐに制服に着替え、リビングに降りて行った。朝食を作っていた母さんは、朝からスッキリした顔をしている俺を見てびっくりしていたが、「朝補講がないから、みんなで遊ぶけ早く来いっち」と言ったら、納得したらしい。
 朝食を詰め込んで、すぐに家を出る。
 今日は一日お祭り騒ぎであろう。ホームルームと掃除と、終業式と成績表。授業から一時的に解放される今日、日ごろ抑えているものが大爆発するのだ。しかも悪いことにそれは連鎖する。学校中の、大騒ぎ。
 その騒ぎに、きっと俺も加わるのだろう。でも、それよりも早く屋上に行って、温に会いたかった。
 そして。
 予想通りの騒がしさの中、大掃除、終業式、HRと時間が過ぎていった。担任から手渡された通知表を皆で見せ合ってひとしきり笑ったあと、すぐに連絡がありそして解散となった。もちろん、この日はすぐに教室を出て行く奴はいない。俺はそれを逆手に取り、初めて廊下から屋上へと上がるルートをとった。
 もう風が冷たい。初めて屋上に上がって温を見た日からぐんと気温は下がった。手をすり合わせながら屋上へと上っていく。
「よう」
 階段を上りきって、ひょいと顔をのぞかせた瞬間、かかってきた声。温が、いた。いつか見たように貯水タンクの上に座って、なげだした足をぶらぶらさせながら。
「温、上るよ」
 ただいつかと違うのは、彼はけして退屈そうではなく。小走りで貯水タンクの下まで行き、はしごに手をかけた。のぼりきって、温と背中合わせに座る。
「なんだ、今日は向き合わねぇのか?」
「うん」
 軽くもたれかかると、温は背中でその重みを受け止めてくれた。その背中から温度を感じ、ふと違和感を覚える。温って、この前こんなに温かかったっけ?思わず背中を浮かして振り返る。
「温」
 手のひらで背中に触れてみた。あたたかい。
 まさか。
「智奈からの伝言、見たぜ」
「えっ、ああ」
「そっからいろんな所をとびまわって大変だった」
「は?」
「気づいたんだ……というか、ずっと見てみぬふりしてきたのかなあ」
 温の口調が、どこか柔らかい。それに、違和感を覚えつつも、首をかしげる彼を、見つめた。
「俺、何かずっと他人と自分の間に、壁作ってた。中学ん時、親友に裏切られた時から、ずっと」
「かべ?」
「おう。それを突き崩してでも、仲良くしてくれたケーゴに死なれてさ、もっと高い壁作っちゃって……そんなんじゃ、誰も信用なんてしてくれねえわな」
 にかっと歯を見せて笑う温の顔に、今までのかげりは全く見られない。すがすがしい、歳相応の笑顔。
「智奈もさあ、壁、とっぱらってくれてたんだろうけど……俺から勝手にあいつに対して特に分厚い壁、作っちゃったみたいで。気づいてみれば、今までぜーんぶ、俺が間違ってたんだって、思った」
 温がこちらを向きにやりと笑う。なんだか知らないけれど、温が変わってる。しかも、智奈さんの伝言見て、いろんな所をとびまわったって、もしかして。しかも、この温度。
「あったかいだろ」
 温が俺の手をとり、にぎりしめる。外気で冷えきった体が、まるでそこだけ春の陽気につつまれたようだ。
「まさか」
「うん、まあ、ここにいるのもあきたし」
 驚いた俺の前で、温がひょうひょうと言ってのける。
「留まる理由もないし。と、思って」
 おいおい、まさか。勝手に決めてくれるなよ。
「成仏? することにした」
 言葉が出ない。これからじっくり、時間をかけて温に理解してもらおうと、思っていた。ゆっくり友達関係を作っていこう、そう思っていたのに。
「うん」
 温、気持ち、届いたんだ。
「反応、薄いな」
 温が顔をしかめる。そんな、しかめられても困る。こっちはなんだか拍子ぬけしたのか安心したのか、気が抜けているんだから。
「じゃ、俺逝くわ」
 温が首をぐるりとまわす。パキパキと骨のなる音がした。あ、幽霊にも骨、あるんだ。
「ば、バイバイ?」
「……だな」
 俺が自信なさげに言うと、温はくしゃりと笑って立ち上がる。俺も立ち上がると彼とはずいぶん身長差があった。
 今からこいつは、ここから、俺の前から姿を消すのか。そう思うと、なんんだか不思議な気分だった。とっくの昔に死んでいるのだから、死ぬのではない。ただ、消える。見えなくなる。話しかけても返事が返ってこなくなる。いないことになる。消える――……。
「片倉」
 ぐるぐる回る頭の中に、妙にすっきりと温の言葉が響いた。
「ん?」
 温は、すっと手を上げ、俺の頭の上にぽんとのせる。
「ありがとな」
 見つめた温の視線は、それだけで心が温まるかのような、優しげで、穏やかなものだった。初めて会った時とは、全然違う。すいこまれるように見つめていると、温がすっとまばたきをした。つられて目をつむり、開いた、瞬間。
 俺の目の前にはすっかり見慣れた街の景色だけが、広がっていた。
「あ、うん」
 ぱちぱちと何度か瞬きをして、あたりを見回す。
 温は、逝った。
「俺も、楽しかった、かな」
 とたん、びゅう、と強風が吹き体がよろけた。危ない危ない、俺はこんな所で死なないぞ。体制を立て直して、目の前に広がる光景を、ぐるりと見渡してみる。校舎、団地、工場、街、山、海――……。温は何年もずっとこの景色を見つめてきたのだ。まるで、屋上の主みたいに。
でもその主も、もういない、か。あまりにあっけなさすぎて、まだ温が後ろにでもいるのではないかと思ってしまう。「何ぼーっとしてんだよ」なんて言って、こづかれる気さえしてくる。
俺は温に、何かしてあげられたんだろうか。何の説明もなしに、走り去るように彼は居なくなってしまった。無責任なやつだなと、ほおを膨らましてももうどうにもならないのだろうけど。
 しばらく、ここで余韻にひたっていたい気もした。けれど師走も終わりの昼間は、学ランだけの生装備の俺には、ちょっと厳しかったようで。
「っくし」
 くしゃみが出て、大きく体が震えた。ああ、やっぱり早いところみんなの待っている教室へ戻ろう。いなかった俺を見つけて、みんな何と言うだろうか。
ごめん、トイレ行ってた! って言おう。俺は走って、屋上をあとにした。

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