屋上のあいつ
十二月二十六日。五日前に解放されたばかりの俺たちは、冬季補講という名のもとに、再び召集されることとなる。と言っても七時間目までフルで授業があるわけではないし、宿題をベースにして授業を行ったりするから、比較的楽なのだが。ただ、一度休みを与えられたというのに、それを取り上げるようにしてある補講は、ずるいと思う。なんとなくだまされた気分になるし。
三時間だけの授業を終えて、終礼を終えた後、ふと俺は窓からベランダを見て、五日前の夜に智奈さんから送られてきたメールを再び見直していた。
『何とはじめてよいやら。昨日、温に会いました。さよならを言いに来たようで、朝方に、ちょっとだけ。温の姿、あの時から全く変わってなかったから、吃驚したわ。ちゃんと手紙も読んでくれたみたいね。
温を見て、本当に本当に安心しました。ありがとう。片倉君には本当に感謝です。本当に本当に。なんだか変な出会い方をして、それでも真剣に私の話を聞いて協力してくれてありがとう。もうすぐ大変な時期なのに、勉強の邪魔にもなっちゃったよね、ごめんね。なんかまだまだ言い足りないけど……これから、なんか困った事があったらいつでも連絡して! 力になるけ! 本当にありがとう、じゃあね』
温は俺の一日前に、智奈さんに会いに行っていたのだ。メールを見た時、思わずほっとした。
『俺のところにもきてくれました。なんか、これから温とどう向き合うか考えていた時だったから、拍子抜けしちゃいました。俺の方こそ、ありがとうございます。智奈さんがおらんかったら、多分何の進展もないまま、まだぐじぐじ考えとると思います。それこそ、勉強の邪魔ですわ。
進路とか、悩んだら先輩として頼りにさせていただきます。それじゃ、また!』
ちょっと考えてから、すぐに返した返信も探して読み、ぱたんと携帯を閉じる。さあ、帰ろうかと荷物をまとめはじめようとした、その時。
「俊弥ぁ、ここわからん」
いかにも「弱った」といったような声とともに、升田がプリントの小冊子をはい、とさしだしてきた。
「またかよ」
そう言い、わたされたプリントに目を通す。古典の、文法問題。
「あー、文法かあ……」
プリントを突き返したい衝動に駆られる。文系科目は得意であったが、いつもフィーリングで解いているため細かな文法問題はまったくもって苦手だった。もちろん、聞かれたこの問題もちんぷんかんぷんであり。
「わからん?」
「んー、俺こういうのフィーリングでといとるけなあ……」
誰か文法得意なやつって、いたっけ――……そう思いぐるりと教室を見回すと、一人の人物が目に入る。あ、いた。
「孝樹! ちょっといいか?」
前の席の奴と楽しそうに話し、大口をあけて笑っていた孝樹に声をかけ、立ち上がる。つられて升田も立ち上がり、二人してぞろぞろと彼の机によっていった。
「なあん?」
きょとんと顔をあげた孝樹に、前の席の奴はさっと立ち上がり、他の奴らのところへ行ってしまった。あ、ちょっと悪いこと、したかもしんない。
「この問題、わかる?」
心の中で「ごめん」とつぶやきながら、彼の手元にプリントをさしだすと、彼はちょっと考えた後に、四つの選択肢の一つにぐるりと丸をつけた。その手つきに全く迷いがなかったのを見て、すごいと思う。やっぱりこいつ、文法得意なんだ。あらためて、再確認。
「ありがと!」
升田はそれを見るとすぐにプリントをとり、とぶように自分の席へと戻って行った。あ、解説とかどうでもいいんだ。
なんとなくその場に残されてしまい、気まずい空気が流れそうになった。孝樹は今まで話していた奴がいなくなったし、俺も升田を追って自分の席に戻るタイミングを、完全にうしなってしまったのだ。
どうしよう、去るか、去るまいか。孝樹の手元に視線を落とし、どっちにするべきか、迷った。でも、ここで話しかけなかったら、孝樹といつまでも、今のような関係を続けることになる気がする。
それはいやだ。何か話しかけよう、そう思ったその時、孝樹がいきなり俺のほうを向いた。
「それで、例の悩み事は解決したと?」
「へ?」
無表情である。今まで何度も、冷たい怖いと思ってきた、孝樹のこの顔、口調。けれど、その口からは意外な言葉が飛び出してきて。
「やけ、なんか悩んどったんやないと?」
お前様子、おかしかったやん。そう続け、首をかしげて見せる。
「あ、うん……解決した」
同じ表情のはずなのに、全く怖いと感じなかった。むしろ、温かみさえ感じて。
「ふうん……それは良かった」
そう呟き、机の横にかけてある鞄の中に、手を伸ばす。そしてすっと、何かをさしだした。
「ほい、長らくありがと」
その手にはなつかしの我が定規が握られている。あ、旅に出してそのまんま忘れていた。
「ん?」
しかしよく見ると、何か違う。なんだか、若々しい。いや、定規に若々しいという表現を使うのもどうかと思うけれど、でもなんか、俺のペンケースに入っていた頃と、違う感じがする……。
「目盛、消えかかっとったけ、書いといたよ」
「ああ! 目盛のせいか!」
「新品っぽいやろ」
ふん、とちょっと自慢げに言った孝樹の様子を見下ろし、ふと、気づいた。
こいつ、素直じゃないんだ。お面のような無表情も、ぶっきらぼうな言葉も、今までよくわからなくて、ただただ怖いとばかり思っていたけれど。ただちょっと、素直じゃないだけなのだ。俺のことを嫌いながらも、俺のことを気にかけてくれている。たぶん、完全に嫌いなのではないと思う。だからこういうところで、さらりとなんでもない風に、話しかけてくるのだ。
「孝樹」
「あ?」
ふい、とそっぽを向いてしまった彼の背を、ポン、と軽くたたく。彼が素直に笑えないならば、俺の方から笑顔を見せればよい。そう言えば、自分の表情を棚に上げて、彼のことを怖いと言っていたけれど。よく考えれば俺も二人きりの時、警戒して笑顔をひっこめていた。孝樹の気持ちも考えずに。
「ありがとう」
に、と、心からの気持ちを込めて、笑う。ちょっとずつだけど俺、頑張って変わっていくから。こうやっていけばいつか、俺と孝樹、二人だけの時でも、みんなと一緒にいる時のように笑ってくれるだろうか。
目の前にはあっけにとられ、ぽかんとした表情が一つ。あ、なんだこいつも結構なあほ面、すんじゃん。まあ、現状はまだこんなもんか。何か言おうと彼が口を開きそうになった瞬間、背後で盛大に扉のあく音がする。これは、勇だ。
「俊ちゃーん、帰ろー!」
騒々しい教室の中にも、きれいにとおるでかい声。
「おう! 今行くー!」
それにつられくるりと振り返ると、席からカバンをとって扉に向かった。
「それじゃみんな、バイバイ!」
教室を出る前に、誰ともなく手を振ると、バイバーイとみなが手を振ってくれる。うん、これも板についてきたな。
校門を出てバスに乗り、いつもどおり船に乗った。昼間とあって船内は俺と勇しかおらず、暖房の直にあたる暖かい席をさっと確保できた。
「そういや勇、今日ちょっと寄りたいとこあるんやけど」
「どこー?」
「恵比寿神社」
手袋を忘れたから、バスから船に乗り換える途中で、寒い寒いとポケットの中に手を突っ込んでいると、ふと指先に揺れたものがあったのだ。いつか拾った、小石。
二つ返事で承諾した勇とともに、船着場からふらふらと神社に向かって歩き出す。海からの風は冷たくて、二人して「寒ぃー!」と叫びながらの道のり。きっと良い近所迷惑だ。
「おしおし」
橋の下に入り、神社が見えてくると、そこに人影はなかった。ざくざくと小石を踏みしめ、境内に入る。
「何しにきたと?」
帰り道、二人でよくここによることはあったが、行こう、と言ってきたのは初めてだった。いつもはなんとなしにたどりつくだけである。
「やりたいこと、あって」
「やりたいこと?」
首をかしげた勇と、ぴたりと鳥居の前でとまる。そして妙に改まって、カバンを地面に置いた。
「これを」
すっとポケットから石を取り出し、まるで珍しいものであるかのように目の高さまで持ち上げてみせる。
「何で石がぽっけからでてくるん!」
それを見て、勇が盛大に噴き出した。つられて笑わないようにぐっと顔をひきしめ、鳥居を見上げる。人を笑わすためには、自分が笑ってはいけない。鉄板のルールだ。
「のせる」
ザ、と左足を後ろに引いた。右膝を軽く曲げ、右手を前に出してこれから石が描くであろう軌道を調節する。顔を引き締め、妙に背筋をのばすことも、忘れなかった。うん、姿勢は完璧。
「おお!」
俺の気合いの入りように、勇が感嘆の声をあげた。そうだ、勇、見ていてくれ。
すっと下からゆっくり、力を加えた。持ち上げられた石が、ふわりと手から離れていく。そして小石はそのまま、きれいな放物線を描き、かちんと鳥居の上に、のっかった。
「おおー! おみごと!」
とたん勇が手をたたき飛び跳ねた。それに右手をあげ、スマイルをおくる。イメージは、来日したハリウッド俳優が空港でファンに見せる、あれ。
みんなの輪からはみだした奴、温はもう、いない。
まるでこの一カ月とちょっとが夢だったようにさえ思えてくる。生きていた彼の痕跡はあるけれど、幽霊だった、俺が出会った彼の痕跡は、まったくもって消えてしまった。
……いや。
俺も挑戦しよーっと、と無邪気に石を選び始める勇を見る。痕跡は消えてしまったけれど、全くなくなってしまったわけではない。
温が気付かしてくれたことは、たくさんある。それを忘れずにこの先、生きて行けたならば。夢じゃなかったんだって、いつまでも自信を持っていられるのだろう。
きっと、俺と温が出会ったことは偶然ではなかった。だからと言って、「必然だった」って、力強く断言するつもりはないけれど。
温、ありがとう。
静かに静かに胸の内でつぶやいて、きれいに晴れ上がった午後の冬空を、微笑みながら見上げてみた。
〈了〉
三時間だけの授業を終えて、終礼を終えた後、ふと俺は窓からベランダを見て、五日前の夜に智奈さんから送られてきたメールを再び見直していた。
『何とはじめてよいやら。昨日、温に会いました。さよならを言いに来たようで、朝方に、ちょっとだけ。温の姿、あの時から全く変わってなかったから、吃驚したわ。ちゃんと手紙も読んでくれたみたいね。
温を見て、本当に本当に安心しました。ありがとう。片倉君には本当に感謝です。本当に本当に。なんだか変な出会い方をして、それでも真剣に私の話を聞いて協力してくれてありがとう。もうすぐ大変な時期なのに、勉強の邪魔にもなっちゃったよね、ごめんね。なんかまだまだ言い足りないけど……これから、なんか困った事があったらいつでも連絡して! 力になるけ! 本当にありがとう、じゃあね』
温は俺の一日前に、智奈さんに会いに行っていたのだ。メールを見た時、思わずほっとした。
『俺のところにもきてくれました。なんか、これから温とどう向き合うか考えていた時だったから、拍子抜けしちゃいました。俺の方こそ、ありがとうございます。智奈さんがおらんかったら、多分何の進展もないまま、まだぐじぐじ考えとると思います。それこそ、勉強の邪魔ですわ。
進路とか、悩んだら先輩として頼りにさせていただきます。それじゃ、また!』
ちょっと考えてから、すぐに返した返信も探して読み、ぱたんと携帯を閉じる。さあ、帰ろうかと荷物をまとめはじめようとした、その時。
「俊弥ぁ、ここわからん」
いかにも「弱った」といったような声とともに、升田がプリントの小冊子をはい、とさしだしてきた。
「またかよ」
そう言い、わたされたプリントに目を通す。古典の、文法問題。
「あー、文法かあ……」
プリントを突き返したい衝動に駆られる。文系科目は得意であったが、いつもフィーリングで解いているため細かな文法問題はまったくもって苦手だった。もちろん、聞かれたこの問題もちんぷんかんぷんであり。
「わからん?」
「んー、俺こういうのフィーリングでといとるけなあ……」
誰か文法得意なやつって、いたっけ――……そう思いぐるりと教室を見回すと、一人の人物が目に入る。あ、いた。
「孝樹! ちょっといいか?」
前の席の奴と楽しそうに話し、大口をあけて笑っていた孝樹に声をかけ、立ち上がる。つられて升田も立ち上がり、二人してぞろぞろと彼の机によっていった。
「なあん?」
きょとんと顔をあげた孝樹に、前の席の奴はさっと立ち上がり、他の奴らのところへ行ってしまった。あ、ちょっと悪いこと、したかもしんない。
「この問題、わかる?」
心の中で「ごめん」とつぶやきながら、彼の手元にプリントをさしだすと、彼はちょっと考えた後に、四つの選択肢の一つにぐるりと丸をつけた。その手つきに全く迷いがなかったのを見て、すごいと思う。やっぱりこいつ、文法得意なんだ。あらためて、再確認。
「ありがと!」
升田はそれを見るとすぐにプリントをとり、とぶように自分の席へと戻って行った。あ、解説とかどうでもいいんだ。
なんとなくその場に残されてしまい、気まずい空気が流れそうになった。孝樹は今まで話していた奴がいなくなったし、俺も升田を追って自分の席に戻るタイミングを、完全にうしなってしまったのだ。
どうしよう、去るか、去るまいか。孝樹の手元に視線を落とし、どっちにするべきか、迷った。でも、ここで話しかけなかったら、孝樹といつまでも、今のような関係を続けることになる気がする。
それはいやだ。何か話しかけよう、そう思ったその時、孝樹がいきなり俺のほうを向いた。
「それで、例の悩み事は解決したと?」
「へ?」
無表情である。今まで何度も、冷たい怖いと思ってきた、孝樹のこの顔、口調。けれど、その口からは意外な言葉が飛び出してきて。
「やけ、なんか悩んどったんやないと?」
お前様子、おかしかったやん。そう続け、首をかしげて見せる。
「あ、うん……解決した」
同じ表情のはずなのに、全く怖いと感じなかった。むしろ、温かみさえ感じて。
「ふうん……それは良かった」
そう呟き、机の横にかけてある鞄の中に、手を伸ばす。そしてすっと、何かをさしだした。
「ほい、長らくありがと」
その手にはなつかしの我が定規が握られている。あ、旅に出してそのまんま忘れていた。
「ん?」
しかしよく見ると、何か違う。なんだか、若々しい。いや、定規に若々しいという表現を使うのもどうかと思うけれど、でもなんか、俺のペンケースに入っていた頃と、違う感じがする……。
「目盛、消えかかっとったけ、書いといたよ」
「ああ! 目盛のせいか!」
「新品っぽいやろ」
ふん、とちょっと自慢げに言った孝樹の様子を見下ろし、ふと、気づいた。
こいつ、素直じゃないんだ。お面のような無表情も、ぶっきらぼうな言葉も、今までよくわからなくて、ただただ怖いとばかり思っていたけれど。ただちょっと、素直じゃないだけなのだ。俺のことを嫌いながらも、俺のことを気にかけてくれている。たぶん、完全に嫌いなのではないと思う。だからこういうところで、さらりとなんでもない風に、話しかけてくるのだ。
「孝樹」
「あ?」
ふい、とそっぽを向いてしまった彼の背を、ポン、と軽くたたく。彼が素直に笑えないならば、俺の方から笑顔を見せればよい。そう言えば、自分の表情を棚に上げて、彼のことを怖いと言っていたけれど。よく考えれば俺も二人きりの時、警戒して笑顔をひっこめていた。孝樹の気持ちも考えずに。
「ありがとう」
に、と、心からの気持ちを込めて、笑う。ちょっとずつだけど俺、頑張って変わっていくから。こうやっていけばいつか、俺と孝樹、二人だけの時でも、みんなと一緒にいる時のように笑ってくれるだろうか。
目の前にはあっけにとられ、ぽかんとした表情が一つ。あ、なんだこいつも結構なあほ面、すんじゃん。まあ、現状はまだこんなもんか。何か言おうと彼が口を開きそうになった瞬間、背後で盛大に扉のあく音がする。これは、勇だ。
「俊ちゃーん、帰ろー!」
騒々しい教室の中にも、きれいにとおるでかい声。
「おう! 今行くー!」
それにつられくるりと振り返ると、席からカバンをとって扉に向かった。
「それじゃみんな、バイバイ!」
教室を出る前に、誰ともなく手を振ると、バイバーイとみなが手を振ってくれる。うん、これも板についてきたな。
校門を出てバスに乗り、いつもどおり船に乗った。昼間とあって船内は俺と勇しかおらず、暖房の直にあたる暖かい席をさっと確保できた。
「そういや勇、今日ちょっと寄りたいとこあるんやけど」
「どこー?」
「恵比寿神社」
手袋を忘れたから、バスから船に乗り換える途中で、寒い寒いとポケットの中に手を突っ込んでいると、ふと指先に揺れたものがあったのだ。いつか拾った、小石。
二つ返事で承諾した勇とともに、船着場からふらふらと神社に向かって歩き出す。海からの風は冷たくて、二人して「寒ぃー!」と叫びながらの道のり。きっと良い近所迷惑だ。
「おしおし」
橋の下に入り、神社が見えてくると、そこに人影はなかった。ざくざくと小石を踏みしめ、境内に入る。
「何しにきたと?」
帰り道、二人でよくここによることはあったが、行こう、と言ってきたのは初めてだった。いつもはなんとなしにたどりつくだけである。
「やりたいこと、あって」
「やりたいこと?」
首をかしげた勇と、ぴたりと鳥居の前でとまる。そして妙に改まって、カバンを地面に置いた。
「これを」
すっとポケットから石を取り出し、まるで珍しいものであるかのように目の高さまで持ち上げてみせる。
「何で石がぽっけからでてくるん!」
それを見て、勇が盛大に噴き出した。つられて笑わないようにぐっと顔をひきしめ、鳥居を見上げる。人を笑わすためには、自分が笑ってはいけない。鉄板のルールだ。
「のせる」
ザ、と左足を後ろに引いた。右膝を軽く曲げ、右手を前に出してこれから石が描くであろう軌道を調節する。顔を引き締め、妙に背筋をのばすことも、忘れなかった。うん、姿勢は完璧。
「おお!」
俺の気合いの入りように、勇が感嘆の声をあげた。そうだ、勇、見ていてくれ。
すっと下からゆっくり、力を加えた。持ち上げられた石が、ふわりと手から離れていく。そして小石はそのまま、きれいな放物線を描き、かちんと鳥居の上に、のっかった。
「おおー! おみごと!」
とたん勇が手をたたき飛び跳ねた。それに右手をあげ、スマイルをおくる。イメージは、来日したハリウッド俳優が空港でファンに見せる、あれ。
みんなの輪からはみだした奴、温はもう、いない。
まるでこの一カ月とちょっとが夢だったようにさえ思えてくる。生きていた彼の痕跡はあるけれど、幽霊だった、俺が出会った彼の痕跡は、まったくもって消えてしまった。
……いや。
俺も挑戦しよーっと、と無邪気に石を選び始める勇を見る。痕跡は消えてしまったけれど、全くなくなってしまったわけではない。
温が気付かしてくれたことは、たくさんある。それを忘れずにこの先、生きて行けたならば。夢じゃなかったんだって、いつまでも自信を持っていられるのだろう。
きっと、俺と温が出会ったことは偶然ではなかった。だからと言って、「必然だった」って、力強く断言するつもりはないけれど。
温、ありがとう。
静かに静かに胸の内でつぶやいて、きれいに晴れ上がった午後の冬空を、微笑みながら見上げてみた。
〈了〉