ここにはいられない


人口4万人にも満たない小さな市の市役所とはいえそれなりに職員はいる。
全員を知っているわけはないし、仕事の上での接点はない。

だから『知り合いか?』と聞かれると難しい顔をするしかないのだけど、まさか「ほとんど一緒に暮らしてます」とはとてもじゃないけど言えない。

「大ちゃん、今日は仕事?」

遠慮して給湯室の外に立っている大ちゃんに、私は殊更明るい声で違う話題を振った。

「うん。朝一で出したい書類があって。だけど早く着き過ぎてフラフラしてたんだ。菜乃と会えてよかった」


他意がないとわかっていても「会えてよかった」という言葉は私をときめかせる。
けれど私にとってときめきは、もう長いこと痛みと同じだった。
嬉しいも、楽しいも、幸せも、一瞬の後に全て哀しいに変わる。

わずかな期待が何度燃えカスになっただろう。
吹けば飛ぶほどに砕け散った恋心を指先で弄ぶことに疲れ、ここを離れたはずだった。

大ちゃんと離れた時間は確かに私に心の安定を与えてくれたけれど、狭い土地で必然的な再会を遂げてみると、タイムマシーンなんて必要ないほどあっけなく昔に戻ってしまう。

「私は仕事中だから大ちゃんの相手ばかりしていられないよ」

「悪い、悪い。あっちのフロアにいる時だとなかなか気軽に話せないからさ。━━━━━あのさ、今夜一緒に飲みに行かない?」

素早く予定を確認する。
明日は訪問の予定もないからずっと庁内で仕事できる。
今日やろうと思ってた起案は明日に回そう。
他に新しい仕事に手をつけなければ定時で上がれると思う。

行っても心が痛いだけだとわかっているのに、私の心は必死で都合をつける。
断る方法なんてない。
そんなことができるなら、もっとずっと楽に生きている。
擦り傷をいっぱい作って、明日後悔するとわかっていても、私は大ちゃんとの時間を優先させてしまうのだ。

「うん。行く」
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