アレキサンドライトの姫君
…そんな経緯をテーブル上の紙に視線を落としながら語り終え、一息ついてからディルクは瞳をエーデルに向けた。

「招待客のほぼ全ての者が、ハインリヒ王国第一王子である私がエーデルを妃に迎える準備をしていることを知っていた」
「…え?」
「最後に会った夜、私が貴女に言った言葉を覚えているか?」
「はい」

頷きながら、その光景を思い出す。
満月の月光に照らされた夜の庭園で、彼は跪いてエーデルの手を取り、告げた。
『貴女を必ず迎えに来る。どうか信じて待っていて欲しい』と。
それは求婚の言葉だった。
何故頻繁に会いに来てくれないのか、身分を明かしてくれないのか…。
今となってはその理由が分かるものの、その時は何も知らなかったというのに、もう彼以外の誰にもこんな感情は抱けないことを痛いほどにわかっていたから。
彼の言う通り全てを信じて頷いた。眦に歓喜の涙を光らせて…『はい』と。

「覚えています。忘れるはずもありません。あんなに幸せな夜のことを…」

凛とした声音が張り詰めた空気を揺らした気がした。
その返事に嬉しそうに色の違う双眸を細めてから、少し苦しげにディルクは呟いた。

「本当は、私が迎えに行きたかった。あの約束通り、…最高の準備を整えて、貴女を世界一幸せな花嫁に…」
「ディルク、様…」

ここへ来て初めて彼をそう呼んだ。彼の身分も何も知らずにいたあの頃のように。

「やっと、名を呼んでくれたな」

嬉しそうにそう言った彼に安堵した。
王太子であると知った時から気軽に名を呼ぶことが憚られていたから。

「約束を守れなくて本当に申し訳なかった。更に、急を要するとはいえ、あのような愚行で強引に貴女を…」

悔しさと苦しさを滲ませた眼差しを手元へ落としながらそう呟く声が微かに震えている気がした。

「しかし、その時 国王は外交のため国を出られていたし、王太子である私は父の名代として公務を果たさねばならなかった。どうしても国を空けるわけにはいかない。それでも、あの紙が予告状か私への挑戦状であるならば、貴女に危険が及ぶ前にどうしても早急に貴女を保護したかった」
「そう…だったのですね…」

むしろ自分のことで彼を悩ませてしまったことがひどく辛かった。
彼の立場上こうした事態が起こったところで身軽に動けるはずもなく、代わりに多くの臣下に命を下してあの強行策が取られたのだろう。

「申し訳ありませんでした…私の所為で…殿下を…」
「何故貴女が謝る。私が貴女を勝手に守りたかっただけのこと。貴女の所為ではない」
「でも…っ」
「貴女は相変わらず強情でいらっしゃる」
「…っ!」

含み笑いでそう言われた言葉に咄嗟に顔を上げると、肩を揺らして笑いを噛み殺している瞳が愛おしげに細められた。
自分を責め続けるエーデルの気を削ぐために言ったであろうその揶揄の意味に気づいた時、彼の優しい人柄にまた胸が締め付けられた。

「この半月、貴女の周りで何か不審なことは起こらなかっただろうか」
「はい、何も」
「そうか…」

問われた言葉に首を振ると、彼は何か思案するように窓の外へと視線を投げる。エーデルはテーブルの上の紙へと目を遣って馴染みのない言語の不思議な文字を一文字ずつ追った。

「何故こんな言語が使われたのでしょう?」
「それはきっと、筆跡を隠すためだろうな」
「え?」
「使い慣れた言語ではいくら偽装したとしてもほんの僅かな文字の癖で筆跡鑑定士には見破られてしまう。見慣れない文字…書き慣れない文字ならそれを巧妙に隠すことが出来ると考えたのだろう」
「確かに…」
「ついでに、その紙やペンのインクについても調べさせた。それは我が国や周辺国…、広く流通している極めて一般的なものだと分かった。王侯貴族、教会、平民、誰でも容易に入手出来る。この王宮内にも同じものがあるし、きっと| 貴女の国(ヴァルトニア)でも普通に使用されているものだろう」

そう言われて改めて紙の材質を確認するように手に取ると、本当に何の変哲もない普通の紙であることがわかる。
ペンの文字の色合いからいっても、きっとどこの家庭にも普通にあるもの。

「だからこそ、これを使ったのだろうな。身元を特定できないように、と」

便箋などの何か特徴的なものであれば製造元や販売先が知られてしまう。そこから糸を手繰るように捜索すればいつか犯人に辿り着くかもしれない…そんな危惧さえ取り払いたかったのだろうか。

「ただの悪戯か、真の予告状か。それは未だに謎のままだが」

そう言いながらディルクは立ち上がると、ゆっくりとした歩調で近づいてエーデルの隣へ腰を下ろした。
不意に頬が大きな手の平で包まれる。

「貴女は誰にも渡さない」
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