アレキサンドライトの姫君
「父上は貴女に甘すぎる」

ディルクの私室に二人で戻ってくると、部屋に入るなりディルクが不満そうな口調で呟いた。

「いえ…、陛下が寛容でいらっしゃるだけです」
「いや。貴女に甘くなる父上のお心も理解出来るのだけどな」

苦笑しながらディルクはエーデルへと手を伸ばし、頬をそっと撫でた。

「ディルク様、先程の言語の件ですが…」

そう切り出したエーデルへディルクは思わず失笑する。その意味がわからず、エーデルは首を傾げながら凝視した。

「やっと二人きりになれたというのに、貴女という人は」

名残惜しそうに頬から手を離し、その手で胸元に押し込まれていたあの例の紙切れをディルクは取り出す。
四つ折りをゆっくりと開いた先の一文を二人は見つめる。

「ヴァルトニアの消えた言語か…。父上はこの一文を訳せたのだろうか? これについては何もお尋ねにならなかったな」
「はい…」
「エーデル、これを訳せるか?」
「はい。今は亡き祖母から学びました」

尋ねられた言葉にエーデルは頷いた。
…今からもう数世紀も前のこと。ヴァルトニア公国にはその小さな国土にふたつの言語が存在していた。ひとつは現在公用語とされているハインリヒ王国と同一のもの。もうひとつは、南の国境付近の先住民族の子孫たちだけが使用していた独自の言語。
経年と共に徐々にその言語が都の者たちにまで浸透したことに混乱を懸念した時の大公は、近隣諸国との調和や教育上の観点から国内をひとつの言語に統一するよう、その言語の使用を禁じる布告を出した。
それ以降、それは『ヴァルトニアの消えた言語』と呼ばれ、見聞きすることはなくなっていった。
それでも、個人の蔵書の中にはその言語で書かれた当時の書物が今でも残されていたりするので、使用こそはしないもののエーデルのようにただの知識として読み書きができたり見知っていたりする者も未だに存在するのだ。
昔、祖母が読み聞かせてくれた大好きな童話から学んだ言語がこんなところで役に立つとは。
根底で何かが繋がっているのか、それともただの偶然か。
一つ息を吐き出してから、エーデルは呟いた。

「…『ヴァルトニアの国宝は、本来神に捧げるべきもの』…」
「神に捧げる…?」

訳した一文を読み上げると、怪訝そうに反芻するディルクの表情に怒りが滾るのが見て取れた。

「エーデルを人身御供ひとみごくうにしろと言うのか」

どこへぶつけたらいいのか分からないとでもいうような怒りのままディルクは声を荒げた。

「エーデルは私のものだ」

強く身体を抱き締められて肩口に顔を埋められ、触れ合う皮膚の温もりに鼓動が跳ねる。

「はい。私はディルク様のもの…。例え神であっても、他の方のものにはなりません」
「ああ、エーデル…」

安堵のようにも思える深いため息を吐いてから肩の皮膚に唇を押し当てられた。
思わずぴくりと身体が跳ねて、甘い吐息が溢れそうになるのを必死に堪えながらエーデルは理性を奮い立たせて話を戻す。

「あの御老人はご自分を神の遣いだと申しておりました。あの方の仰る『神』とは一体…」
「神、か」
「今回の尺牘は前回のものと同一の差出人でしょうか?」
「もしくは…前回のを真似た模倣犯か。…明日にでも筆跡鑑定をさせよう」
「明日に?」

今から臣下に鑑定依頼を命じてもいいのでは…との思いはすぐに掻き消された。

「エーデル、尺牘の話はもういい。本当なら、人疲れした貴女に今すぐ休息を与えるべきだと分かってはいるのだが」
「え?」
「今すぐ、貴女を抱きたい」

身を屈めて至近距離でまっすぐ見つめるその眼差しは熱を帯びていた。
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