あなたしか見えないわけじゃない
悔しいのか悲しいのかわからない。私は泣いていて、気が付いたら夕暮れだった。
早く帰らないと、もしかしたら彼が帰宅してしまうかも。たまたま早く仕事が終わって定時で帰宅したらここで出会ってしまう。

ゴミ袋と入れ替えに車から出してきた紺色のリボンの付いた大きな包みをベッドに置き、デスクに置き手紙を残した。

もう一度水槽の魚たちにお別れを告げて玄関の鍵をかけた。玄関の鍵は大学病院の医局の彼宛に書留便で送るつもり。

涙が止まらない。
少し息苦しい。

第三京浜を下りてすぐに洋兄ちゃんに電話した。

「洋兄ちゃん、助けて」



まだ仕事中のはずなのに電話に出た洋兄ちゃんは、私の居場所を確認すると病院の駐車場で待つように言った。

電話で洋兄ちゃんの声を聞いて安心したのか駐車場に着くと私の気持ちは少し落ち着いてきていた。
車内で15分程待っていると洋兄ちゃんが来た。

「志織、運転席交代」
黙って助手席に回ると、洋兄ちゃんが運転席に座る。
私の泣き腫らした顔を見ることなく、真っ直ぐ前を向いて私の頭をギュッと1回つかむように触ってから車のエンジンをかけた。

洋兄ちゃんは何も言わないから私も洋兄ちゃんのマンションに着くまでボーッと流れる外の景色を見ていた。

リビングのソファーに座ると、洋兄ちゃんはキッチンに行った。

「洋兄ちゃん、緑茶が飲みたい」
わがままを言ってみる。

「わかったよ、お姫さま。ちょっと待ってろ」

わがままとか言われるかなって思ったけど、甘やかしてくれるみたいだ。

大きく息を吸って呼吸を整える。

疲れた。目を閉じてゆっくり呼吸をしていると、ふいに脳裏に彼の部屋の水槽が浮かんだ。でも、水槽が魚たちが消えて次に浮かんだイメージは香取先生だった。
膝を押さえて倒れている
私をあざ笑う顔
和服のお見合い写真

途端に吐き気がした。
我慢できない強い吐き気。
トイレに駆け込んだ。

咳き込み、嘔吐する。
昨夜から何も食べていない。水分も少ししか接種していないから吐く物がなく苦しい。
何度か胃液を戻すと胃の辺りが激しく痛む。

「志織」
ドアの向こうで洋兄ちゃんの声がした。

「だ、大丈夫」
私はなんとか声を絞り出した。

「わかった。落ち着いたら出ておいで」

「は…い」

ドアの向こうの洋兄ちゃんの気配が消えた。

私はまたこみ上げてくる吐き気と戦う。

洋兄ちゃんは私の事をよくわかっている。
私は発熱とかひどく体調が悪い時は1人になりたがった。吐いている時ならなおさらだ。
誰にも見られたくない。

発熱も嘔吐も少し落ち着くと誰かに甘えたくなる。
父はそのタイミングが全く理解できないようで私は嫌だった。
洋兄ちゃんはよくわかってくれていた。
私が必要とするタイミングでいつも顔を出してくれた。
< 73 / 122 >

この作品をシェア

pagetop