クラウンプリンセスの家庭教師
象牙の塔
 象牙の塔の賢者、エデルは、予想外のカイの帰還に驚いていた。
 復讐が果たせていない事は明らかで、無事に戻ってきた事は喜ばしい事であったが、心ここにあらずというか、割り当てられた部屋に閉じこもり、食事にも手をつけない。時折、部屋から、叫ぶようなうめくような声が聞こえてきては静かになる。もしや病かと、医師を呼んだが、断固として部屋から出てこようとはしなかった。

 伝え聞くに、クラウンプリンセスの覚えもめでたく、家庭教師としてのカイは充分に努めを果たせていたように思えた。世継に仕える家庭教師が、そのまま相談役や、側近となって、政に参加する事は、過去にも例がある。

 エデルは、カイが『復讐』とは別の何かを見つけたと確信していた。

 しかし、それだけに、カイが『今の』自分を受け入れられずに苦悩しているように、エデルには見えた。

 『あの一件』後、夜が明けてすぐに、カイは宮廷を後にした。象牙の塔のエデル師を頼って、既に三日経過した。眠ろうとすると、『あの夜』のトリスの姿が、感触が浮かぶ。妄想で、カイはトリスを何度も犯した。少し低く、かすれ気味の声が、驚くほど高い声で喘ぎ、カイを求めるという妄想。目を覚まして、ひどい自己嫌悪に陥っていた。
 かつて、父と娼婦のまぐわいを見せられた時の記憶が、父が自分に、娼婦の姿がトリスに変わって、さらに記憶が混乱する。

 このまま何も食べず、飲まずにいたら、そのまま死ねるだろうか。とも、思った。エデル師が医師を連れて来たが、会って話をする気になれなかった。

 扉を叩く音が、激しさを増し、ついに扉が壊されて、苦笑するエデル師が姿を表した。

「……やれやれ、ひどい臭いだ」

 部屋にたちこめる臭気に顔を歪ませてはいるが、にやにや笑っているようにも見えた。

「食事をし、入浴なさい。先ほど、先触れが来た。ベアトリクス殿下がこちらに向かっている」

 言われて、飛び起きたカイの顔には、驚きと戸惑いが浮かんでいた。

 ……逃げたい、と、思った。食事をし、入浴をすると、理性が戻ってきた。彼女は何をする為に象牙の塔へ来るのだろうか。カイを処罰する為だろうか。それであれば、甘んじて受ける覚悟はあった。しかし、『何故』と理由を問われたら、自分は何と答えればいいのか。 
 単に欲情し、襲いかかったのだと思って欲しくは無かった。あの時、カイは怒っていた。『あれ』は、あの役目は、王妃に差し出されるのは、『男』であれば誰でもよかったはずなのだ。彼女にとって自分は自分なのだと思って欲しかった。人格をないがしろにされ、性別上の役割を押し付けられる事を、何よりも嫌がっていたはずのトリスが、カイに『男である事』のみを期待され、あまつさえ、王妃と通じるとさえ思われた。
 忠誠を疑われた。そして、それに傷ついている自分。

 カイの中に、王家への復讐心はもうすっかりなくなっていた。正しくは、王家の長となるべき者がトリスであるならば、彼女を害する事などできなくなっていた。

 そして、そうして、己が『男である事』を要求された事に怒りを覚えながらも、トリスを『女として』扱ってしまった事への後悔があった。王妃に煽られ、体は一時反応はした。しかし、トリスで無くては嫌だった。自分にとって『女』はもうトリスしかいないのだ。女だから抱きたいのでは無い。トリスだから抱きたいのだ。しかし、それを伝えて何になるというのだろう。出自を偽り、復讐の為に仕え、対象を愛してしまって目的を違えてしまう事。

 死んだ父、顔も知らない親族達の集積した思い、継がれたものを、己の感情のみで翻す事への罪悪感。高潔な彼女に対して、己の醜さを恥じ入るばかりで、いっそ殺して欲しいとすら思った。

 そのくせ、閉じこもった室内で、ひたすらトリスを妄想し、穢し続けるという浅ましさ。

 頭がおかしくなりそうだ……。

 そう、ひとりごちる。

 ふいに、部屋の外がざわついているのがわかった。誰かが近づいてきている。ほどなく、コツコツと(修理されたドアを)叩く音があり、ベアトリクス殿下が姿を見せた。
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