クラウンプリンセスの家庭教師
クラウンプリンセスと家庭教師
 つくづく不毛な一夜だった……。ガイナから逃れて宴に顔を出したが、すでにおひらきになっており、(おそらくは母が適当にしめてくれたのだろう)トリスは一人で自室に戻った。かろうじて日記をつけたが、他は何もする気になれず、疲れの為かすぐに寝入ってしまった。就寝前の、一人で、ゆっくり思索にふける為の時間はそっくり失われ、容赦なく朝が来た。
 急いで身支度を整えて、いつもより早く執務室に行く必要があった。やっと、象牙の塔から教師がやってくる。
 できれば、トリス自身が象牙の塔に行き、学びたかったが、時間が惜しかった。執務の合間を縫って、教えを乞う。可能であれば、教師には、トリスの第二の頭脳になって欲しいと思っていた。権力への執着の無い、知識を持ったもう一人の自分が欲しかった。

 カイ・グロースは、広く旅をした者だという。実際に己で足を運び、見聞きした知識は、書物から得られる以上のものがあるに違いない。トリスは早く講義を受けたかった。

 いつも通り、執務室の机で書類に目を通しながらの簡単な朝食を済ませると、程なくノックの音がした。女官が、カイの到着を告げる。すぐに通すように言ったが、女官の様子がどうもおかしい。少し顔を上気させて、のぼせ上がっているように見える。もしや熱でもあるのかと尋ねたが、どうもそうではないらしい。心ここにあらずといった態で、教師を従えて来たところで、トリスは合点がいった。現れた家庭教師は、控えめに言ってかなりの美丈夫であった。顔立ちのよさはもちろん、鍛えられたたくましい体。妙齢の女性がのぼせあがるのも無理はない。女官は聡明で、そうそう男にのぼせあがったりはしないはずだったが、なるほど、これほどでは仕方ないのかもしれないな、と、トリスは女官とは反対に、冷めた気持ちでカイを値踏みするように見た。
「はじめまして、ベアトリクス殿下。 昨日、象牙の塔より着任いたしました。カイ・グロースと申します」
 なんと、声もいいのか。よく響く声が、形のよい唇から自己紹介する。
「宮廷へようこそ、先生、お待ちしていました」
 立ち上がり、椅子を勧め、カイが着席するのを見て、向かいの椅子にトリスも腰を下ろした。
「殿下、私はあなたに学問を説くために参りましたが、臣下の一人でございます。どうかカイとお呼び下さい」
 耳に心地よい高さの声が、背筋から体内に染みるように響いた。
「うれしい申し出ですが、こちらも未婚の女ゆえ、師とはいえ男性の名を呼ぶわけには参りません、どうか先生と呼ぶ事をお許しいただきたい」
「もったいない事です、では謹んで……」
 まずいな……と、トリスは思った。これほどの美丈夫を重用するのは得策とは言えない。(そもそも、現時点でそれに値するかどうかは判断がつきかねたが)しかし、象牙の塔から招聘した人材をやすやすと替えてくれというわけにもいかない。いっそ師に値しない程度の能力であれば、解任して別の人間を……と言い出しやすいだろうに。あるいは……適当な(それこそさっきの女官でもいい)女と世帯を持ってくれれば……。
「……殿下?」
 考えこんでいる様子のトリスに、カイが尋ねる。
「ああ、すまない早速講義に入ってもらおう」
 ともかく、諸々の不安材料をどうこうするより、本来の役割を果たすだけの力があるかを見極める必要があった。

 昨晩感じた通り、クラウンプリンセスは情緒より理性が優っている性格のようだった。少し方法を考える必要がありそうだ。と、カイは思った。象牙の塔にも女はいた。変人揃いと名高い中でも、特に女は変わり者揃いだった。困ったことに、カイはそうした、少し変わった女達が嫌いでは無かった。話をしていて退屈を感じないし、向学心の高さ、こだわりの強さは学ぶところも多い。
 情緒に流されにくく、冷静な判断力を持っている人間を操る事は難しい。で、あれば、正面から議論を戦わせていくしかない。
 女性を喜ばせる方法は、あまり必要無かったようですよ、父上。心の中で、カイへの房中術指南の為に雇った娼婦に刺殺された父を悼んだ。
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