徹生の部屋
だからそれは、きっと私でなくてもよかったはず。

カートを押していっしょにスーパーで買い物をしたのも、ひとつのお鍋をつつき、大きなスイカを分けあったのも。
手を繋いで人混みを歩き、浴衣を着て並んで花火を眺めたことも。

どれもがみんな、偽りの関係を装うためにみせられた、ひとときの夢だったのだ。

「もし今後“当社の製品“でなにか不都合が生じた際は、ご遠慮なくカスタマーセンターか店舗のほうへご連絡ください。担当の者が対応させていただきます」

彼は社にとって、大切なお客さまであり、重要な取引相手でもある。

冷静に、冷静に。
いばら姫や白雪姫みたいに、いつまでも夢の中にいるわけにはいかない。
大丈夫。目覚めのキスは、もう済ませた。

最後にまた丁寧に頭を下げてから、スーツケースに手をかけた。そこに、徹生さんの大きな手が重ねられる。

「送っていこう」

「ありがとうございます。ですが坂を下るだけですし、お気遣いはけっこうです」

掌から伝わる熱を冷ますよう、自分で自分に言い聞かせる。これは絶対恋じゃない。
だけど暗示は、重なった手にこめられた力で呆気なく解かれてしまう。

「楓はひとりで……。本当にひとりで平気なのか?」

気遣わしげな声が、私にその言葉の意味を誤解させそうになる。

「ここへ来たときも、ひとりでしたから」

「……そうか。気をつけて帰れよ」

強引に私をこの洋館に引き留めたときとは正反対に、拍子抜けするくらいあっさりと別れの言葉を告げられたのだった。






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