光の国へ
タイトル未編集

持戒

後頭部が締め付けられているようだ。手首が痺れている。いよいよか、と思いつつ、指を動かしてみた。動く。お迎えではないらしい。この頃、突然死の予感に襲われる。七十八歳にもなったのだ。いつお迎えが来ても不思議ではない。
同級生の訃報が届くようになった。吉君が往ったのは堪えた。奥さんから電話があり、駆けつけると、ベットに横たわった吉君は、半年前に会ったときとは別人のように痩せ細っていた。余りの変わりように撃たれ、言葉を失った。吉君は、一緒に鉱石ラジオを作ったな、とぼそぼそと中学生の頃のことを言い、口を歪め、癌に、と呟いた。何か言わなければ、と思ったが、言葉が浮かばず、手を差し出した。力無く伸びてきた、皮と骨だけのような手を掴み、励ましの意を込めてみつめた。僅かに答えたようであったが、直ぐに、疲れた、と言い、目を閉じた。
 いいやつだった。
 重い瞼を持ち上げ時計を見た。午前一時だ。昨夜は十時に睡眠薬を呑んだのだが、効き目が薄れてきたものだ。処方して貰うのは近くの女医さんだ。微笑んだ丸顔がうかんだ。
 寝直そうと無念無想を心がけた順信の脳裏に、また、あの四文字がうかんだ。
 還相回向。
 数日前、新聞の文化欄を広げていた視線が釘付けになった。
 還相回向、の四文字を睨んでいたら、古い記憶が蘇ってきた。
 住職の資格を貰う為に通った宗門大学の講義中だ。
 白髪の教授が黒板に、還相回向、と書き、浄土から還るのだ、と口調を強めて語り続けた。非科学的だ、と聞き流した。以来五十数年、小寺の住職として過ごしてきた。教授の言葉は、すっかり忘れていた。新聞の文章は、いつも頷かされる哲学者の随想だ。非科学的では片付けられない、と考え込んだが、分からない。分からないながら、信心の要に迫る言葉だ、と思えた。
 還相回向、浄土から還る。
 これでは寝付けない。
 少し歩こう。
 
順信は丹前を羽織って自室を出た。 


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