臆病者で何が悪い!
『今、内野さんの部屋にいるんだ。いちおう”今”の恋人はおまえだから生田にはきちんと報告をしておくべきかと思って』
そんな言葉を鵜呑みにした俺は、どうしようもないほどに馬鹿なんだと思う。
でも、この数週間、神経を張り詰めていた俺にとって、その言葉はいとも簡単に俺の緊張の糸をぶった切った。
仕事初めの日から間も無いある日、俺は田崎に呼び止められた。
「あの、胸元の……。あれ、僕への挑発?」
階段の踊り場で壁にもたれて立っていた田崎に、仕方なく会釈をして通り過ぎようとしたのに。あの男はそのまま行かせてくれはしなかった。
「なんのことですか?」
沙都の、胸元少し上につけた跡のことだろう。分かっていたけれど、すっとぼけてみせた。
「……ああいう子どもじみたことをするほど、余裕がないってことなんだろうな。聞いたよ」
「何をですか」
本当はわざわざ顔を見るのもいやだったが、仕方なく振り返る。
「おまえの係、新しい政策打ち出すんだってな。局長が直々に力を入れようとしている案件、それをおまえが実質のリーダーになってやるんだろ。まあ、役所の仕事なんて実際のところ補佐と係長で回っているんだから、当然のことだな」
一体、何が言いたいんだ。
俺は無言のまま、その作りものの笑みを見つめた。
「おまえにとって、係長になって初めての、そのうえすぐの大きな仕事だ。これから嫌ってほど忙しくなるだろ。失敗は許されないし、研修まである始末だ。プライベートの時間はほぼない。だから――」
あえて適度な距離をとって立っているというのに、田崎が俺に一歩ずつ近づいて来る。
「内野さんには手を出すなっていう、僕への念押し? 自分は仕事で忙しくて彼女をずっと見ているわけにもいかないしな」
目の前にあるイヤらしい目つきが、俺の胸をムカつかせる。
「余裕のない男のすることは、みっともないな」
ああ、余裕なんてこれっぽっちもねーよ――。
余裕なんてあるわけない。沙都の傍にいるようになって、みっともないことばかりしている気がする。
「でも、どうせおまえは仕事に集中せざるを得ないよな。失敗すればいろんな人に迷惑をかけるわけだし。だから、彼女を放っておくことになっても仕方がない。だけど、その間に僕が何をしても、とやかく言われる覚えはないよな?」
「……は?」
田崎の表情が変わる。その笑みに何か自信のようなものが宿ったような気がした。
「結婚しているならまだしも、恋愛に順序はない。心を手に入れた方の勝ち。それが恋愛だろ? 内野さんは、別におまえのものでもなんでもない」
「あんた、何、言ってるんだ……?」
言葉から敬語が消えているのに気付いても構っていられなかった。
その感情の垣間見えない目を睨み返した。
「別に? ただ、おまえの挑発に乗ってやろうって言ってるんだよ。まあ、せいぜい仕事に励めよ。忙しいところ、足を止めて申し訳ございませんでした。生田係長」
仰々しく頭を下げると、ただ立ち竦んだままの俺の元から立ち去ろうとした。
「内野は、そんな軽い女じゃないですよ。あんたに少しちょっかいを出されたからと言って、なびくような女じゃない」
勝誇ったような田崎の目に、俺はそう言い放っていた。
俺を挑発したいだけ。分かっていても、それはまた、沙都をも侮辱しているような気がして、俺は黙っていられなかった。