先生、ここで待ってる
1 追憶、恋のカタチ
海沿いの道、ドーナッツのチェーン店、学校の中庭。

普通すぎる毎日が、あの恋だった。

私はどこにも行けないで、今でもそこに立ち止まっている。






「ミサキ・・・」

後ろから抱きしめてくる筋肉質な腕と一緒に聞こえた名前にピクリと反応する。その腕に素直にからめとられたまま、もう少しだけ寝ようと目を閉じた。




「美波、あんたまさかまだこの前の男とダラダラしてんの。」

金曜日の仕事帰りにいつもの居酒屋で、加奈子は枝豆を変な方向に飛ばしながら尋ねてくる。

「うーん、まあ、ね。今朝、寝ぼけて彼女の名前で呼ばれた。」

「・・・馬鹿やね、あんたも。」

落ちた枝豆を拾いながら、少し怒ったような声でそう言って、だけど少し悲しそうな顔で加奈子はため息をついた。

あんたも、という言葉にそれを言った本人自身の後悔も含まれている気がして、ちらりとビールを飲む美しい横顔の友人を見る。

カウンターからだし巻き卵が出てきて、どちらからともなく自然と話題を変えていた。そのあとは、お互い2杯追加の飲み物を頼み、いつもと同じ仕事の愚痴や適当な話をしてお店をでる。

加奈子は乗れそうなタクシーを探しながら、

「早めに切り上げな。そういうのはうまくいかないってあんたもわかってんでしょ。」

「うん。」

素直に頷いた私に、加奈子はきれいな横顔でふっと笑って

「まあ、最後に決めるのは美波やけど。一応友達思いな感じ出してお節介いっとくわ」

と言って、いつも通りの簡単なあいさつでタクシーに乗り込んだ。


23時近くにのった地下鉄は金曜日ということもあって割と混んでいたが、座ることができた。座ってすぐ靴からかかとだけすぽっと抜いた。これと、家に帰ってストッキングを脱ぐ瞬間は何とも言えない開放感だ。開放的な気分になってから、さっき加奈子が言った言葉を思い出す。


同じ高校に通っていた加奈子は、地元の大学に進学した私とは違い、東京で美容師になるといって、高校を出てすぐ東京の専門学校に行き、そのまま美容室に就職した。私が就職で上京した時には、既に同じ美容室で働く既婚子持ちイケメンと付き合っていたが、数カ月前に妊娠してしまった。それを知った相手の第一声が「もちろん手術代は出すから。」だったらしい。

私に話をしたときには、もうすべてが終わっていた。きっと私に伝えたときの何倍も怒っただろうし、何百倍も泣いたであろうことは珍しくベロベロに酔っぱらった加奈子を見て容易に想像できた。少し前まで、

「さすがに奥さんと子どもがいる人はやめときな。犠牲になるものが多すぎる。」

と止める私に、別に今すぐ奥さんと別れて欲しいわけじゃない、でも将来はって言ってくれてるから、といつもの加奈子からは想像できない感情的な乙女モードを見てきた私としては、あの既婚子持ちイケメンを一発ぶち殴ってやりたい衝動に駆られた。いや、今でもぶち殴ってやりたい。

不倫は世間的にもきっとよくないものだろうし、傷つける人が多すぎる。加奈子だってそれは十分わかった上で、罪悪感と戦いながらも、それでも恋を止められなかった。私も頭ではわかっていても、加奈子を止めることはできなかったし、その術も持っていなかった。【不倫】という名でも、恋の始めから終わりまでの間にあったことや気持ちや言葉は二人だけのものだ。




・・・そういう私も今、彼女のいる男性と付き合っている。



小学校の最後の2年を担任してくれた先生が大好きで、将来は教師になりたいと思っていた。しかし、数学が壊滅的に苦手だった私は、センター試験の数学でもやはり絶望的な点数しか取れず、第一希望にしていた教育学部のある東京の大学は諦めざるを得ず、結局地元の大学の文学部に滑り込みで合格した。

文学部でも、中学校と高校の国語や英語の教員免許が取得できたので私は国語の教員免許を取った。しかし、大学4年の教育実習で、教員の苦労を目の当たりにし、心が折れて教師の夢は諦めて、他の友達と同様に就職活動をしたが、ちょうど就職氷河期のころ。30社受けて1社しか受からないというこれまた心だけでなくいろんなものがバキバキにへし折られた。

小さいころから人当たりはいい方だったし、友達づくりに苦労したこともなかった。小学校から中学校までは毎年学級委員長にされていたし、部活では部長やらキャプテンやらをやらされてきたし、私は自分がてっきりできる人間だと勘違いしていた。だから、試験を受けた会社から【誠に残念ではございますが・・・】というメールが送られてくる度、わたしの心と自尊心はどんどんどんどんしぼんで行って、最後の一社から内定をもらう頃には、テントウムシくらいの大きさになっていたのではないだろうか。

やっとのことで手に入れた内定に安堵していたとき、大学の就職課というところに呼び出され、文学部でもせっかく教員免許を持っているのだから、と大学から都内の私立高校の枠があいたため推薦できるがどうしたいか、と聞かれた。教員の夢は諦めたつもりだったが、せっかくだし、受かるかどうかもわからないし、ダメもとで受けてみるとなぜかすんなり決まってしまった。自分はできる人間ではなかったにしても、運は持ち合わせているらしかった。

人の幸と禍は最終的に同じくらいになるようになっていると以前何かスピリチュアル風な本で読んだ気がする。そんなものは信じていないけれど。

ーー私はあまりに大きな禍を見すぎて、もうこれを埋めるだけの幸はあるはずがないと思っている。





都内の私立高校に就職してすぐ、慣れない仕事やお局たちからの軽い嫌がらせに私は疲弊していて、そんなときに一つ年上の先生がよく声をかけてくれた。女子生徒にキャーキャー言われている、いつでもパリッとアイロンのかかったシャツを着たイケメンだった。「悩んでたらいつでも相談のるから。」とメールアドレスを渡され、メールのやり取りが始まって、飲み会でお酒の弱い私がふらついているとタクシーで家まで送ってくれるという所業。そして、何もしないで帰っていくという紳士ぶりだ。


ーー私は二度とあの時と同じ恋はできない。でも、恋なんてものはそこら中にきっかけが転がっていて、簡単に落ちてしまうものだ。


ある日、メールのやり取りをしていて、いつもお世話になっているので今度お茶でも、と言ってみると「じゃあごはんでもいこうか。」と言われ、これはもしかしてもしかしなくても?しかし、ふと、あれだけの紳士でイケメンで、女子生徒に人気のある人が今フリー?という疑問が湧いた。

『中村先生は彼女いないんですか?』

もはや今更である。

『あ、いるよ。』

えー、おるんかい。まぁ、そうですよね。そうでしょうとも。

『じゃあ、あの、ごはんとかはダメでしたね!自販でコーヒー10本くらいご馳走させてください♪』

私の自制心、よくぞ働いてくれた。

『いや、そんなにコーヒー飲まないよ笑。でも、彼女3年くらい付き合ってるんだけど、うまくいってなくて。そういうのも相談とかしたかったんだけど』

そういうことでしたら・・・と、彼女さんには申し訳ないけれども、私も恩を返せるし、食事くらい、一回くらい。確かに私にもさっきまで邪な気持ちがあったが、すさんだ心にイケメンと一回食事にいくご褒美が与えられたのだと思ってオッケーした。
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