先生、ここで待ってる
2 年上の女(ひと)
2年D組 10番 竹内夏希(たけうちなつき)


まだ何となく慣れない新しい学年やクラスと、書き慣れた自分の名前を掌サイズの真っ白い紙に書きながら、教卓の方をみる。

学年が2年にあがった春、最初の古典の授業。

浅野美波

と黒板の真ん中に縦書きで、綺麗な字で大胆に書いたその人は

「浅野美波です。歳は24歳。好きなのは本を読むこと。好きな芸能人は鈴木一郎。これから一年間古典を担当します。よろしく。」

とあっさりとした自己紹介を一息に言ってニコッと笑った。

俺が高校に入学するのと同じタイミングでこの学校に就職したらしいこの人は、若い女の教師の少ないこの学校では割と知られている人だった。

とりわけ美人というわけではないのだが、色が白くてほっそりしていて、黒の長い髪をいつも後ろで1つに結んでいる。毛先はパーマだろうか、くるんとしている。色が白いからか、細いからか、少し儚げな印象だった。

クラスの友達は若くてちょっと可愛い女教師が古典の担当で、よっしゃー!とかいえーい!とか何とか叫んでいる。確かに一年の頃はおじさんというか、おじいちゃんみたいな先生が担当で、授業の度にクラス全員が睡魔との戦いを繰り広げていたことを思うと、気持ち的にはラッキーなのはわかる気がする。

「せんせー!好きな芸能人の鈴木一郎って誰っすかー?オレら知ってるー?」

クラスの盛り上げ役、サッカー部のエースの日野がからかいまじりに質問する。

「・・・は?」

思いっきり眉間に皺を寄せて浅野美波は言ったあと、

「イチロー知らない人って日本にいるの。」

と意外そうに日野に聞き返した。

あ、鈴木一郎って、イチローか。それ、スポーツ選手じゃん。と思いながら、日野を見る。

日野は一瞬ぽかんとして

「え?!鈴木一郎ってイチローか!!それスポーツ選手じゃんか!!」

俺が思ったことと全く同じことを言って笑う。

浅野美波は、わかりにくかったかごめん、と苦笑いしながら、小分けにしていた掌サイズの紙を最前列の生徒に渡していく。

「せんせーは、今彼氏いますかー?」

今度は自分のすぐ後ろから質問が飛んだ。すぐ後ろの席は野球部の武田。新学期で出席番号順に席が並んでいるため、俺の1つ後ろの席である。

浅野美波は紙を配りながら、どこから声が聞こえたのか目で探して、目が合った俺で一瞬とまったが、そのあと、俺の肩からひょこっと顔を出している坊主頭の武田に気が付いたらしい。

こちらを向いて、いない、とだけ言ってふっと笑った。

本当かどうかはわからないが、それを聞いた何人かがヒューなどとよくわからない声をあげた。


「私、みんなのこと全然知らなくて顔と名前が一致しないから、配った紙に出席番号と氏名を書いて。氏名はフリガナつきで。空いたスペースには質問でも自己アピールでも何でもいいから書いて。書けたら1人ずつ自己紹介。はい、書いて。」

手をパチンとならした浅野美波をちらりとみてから、

思っていたよりハキハキと話す人だな、と思いながら、言われたことを書く。自己紹介、だるいな、とも思いながら。

数分で紙が回収されて、1人ずつ前に立たされて自己紹介が始まる。何回やっても、この時間はあんまり好きではない。人前で話すのも得意な方ではないし。

浅野美波は1人ずつの自己紹介を、窓に寄りかかって頷いたり笑ったりしながら聞いて、回収した紙にサラサラと何かを書き込んで、終わったやつには、ありがとう、よろしく。と声をかけている。

自分の番が回ってきたので、教卓の前まで出て行き自己紹介をする。

「10番の竹内夏希です。よろしくお願いします。」

とだけ言って帰ろうとすると、

「ちょっと待って、それだけ?他に何か情報ちょうだい。」

と言って浅野美波が笑う。

「あ、じゃあ、好きなスポーツ選手はクリスティアーノ・ロナウドです。」

「好きな教科は?」

「世界史と体育。」

「なるほど、ありがとう、よろしく。」

浅野美波と俺の初めての会話はこうやって終わった。





まず、若い新任の教師はクラスからのカワイイ洗礼を受けるのはお決まりで、それは浅野美波の場合も例外ではなかった。

ある時は黒板のところにおいてあるチョークが一本もないという嫌がらせ。浅野美波は黒板に何か書こうとして一瞬止まったが、すぐに自分のスーツのポケットから薄っぺらいプラスチック製の箱のようなものを取り出してそこから白いチョークを1本抜き、黒板に何かを書き始めた。

仕掛けたグループとしては、焦る浅野を見たかったのだろう。計画は失敗に終わったようだ。

その様子を見て、仕掛けたグループを特定したらしい浅野は

「今日は黒板の溝をきれいに掃除してくれてありがとう。でも、チョークは残してた方がいいんじゃない?」

と言っていたずらっぽく笑った。

クラス中から、えー!!つまんねー!!などと野次を飛ばされながら

「こちとら去年も同じようなことされてるんだから、頭使いな、あ・た・ま。」

と言ってまた笑う浅野は自分が予想していた儚げで大人しそうな印象とは違って、またそれを興味深いと思った。


ある時は教室の入り口に黒板消しを挟んで開けた瞬間に落ちてくるという嫌がらせ。仕掛けたのは、また前回と同じグループだ。サッカー部の日野がそれを見ながら、

「おい、それマジで直撃したらどーすんの。さすがに女の人がチョークの粉まみれってかわいそうじゃん。」

と言った。日野はサッカー部でもエースで、背も高く顔もいい。自分も175は超えているが、日野はそれより高い。しかも話も面白く、女に優しいからかなりモテる。自分は日野とよくつるんでいるが、しょっちゅう女子に話しかけられるし、よく呼び出されている。うらやましい限りだ。今の発言でも日野のポイントがアップしたことは、何人かのクラスの女子がとろけた表情で日野を見つめていることでわかった。

仕掛けている本人たちは、粉はきれいにした、などと言って楽しそうだ。これが陰湿な嫌がらせならば自分たちも止めるが、いたずらだし・・・と考えているとチャイムが鳴ってしまった。なんだか、変に緊張してみんな浅野が来るのを待っていると、仕掛けた前方のドアでなく後方のドアがガラっと開いた。

カツカツとヒールをならしながら、教卓につくと

「ったく、あんたらいつの時代よアレ。しかもレディーに対してあんなデリカシーのかけらもない嫌がらせするとか、女にモテないからね」

と笑いながら言っている。

「彼女いるしー!」

などと言う仕掛けグループに、全員振られてしまえ、などと言ってまたみんなを笑わせている。

浅野はいつも意外で、少しだけ口が悪くて、見た目よりも気が強い。目が離せなくなったのはいつ頃からだろう。
最初音読をさせるとき全員出席番号順で呼ばれていたのに、よくいたずらする奴らや、よく話しかけたりしている日野達が名字で呼ばれるのをうらやましく思ったのはいつ頃からだっただろう。

眠くなるし、今の時代に昔の言葉を勉強する意味もよくわからなくて古典はあまり好きではなかったが、浅野の授業はいつもなんだか楽しかった。

「司馬遷って人はね、王様の怒りをかって宮刑っていう死刑の次に重い刑を受けたけど、その怒りや悲しみや絶望の中でこの『史記』を完成させたんだよ、すごくない?」

目をキラキラさせて話す浅野になんだかこちらまで楽しくなる。わけのわからない文法の説明の後は必ず自分たちが楽しめるような雑談や小ネタを出してくる。それは昨日のテレビの話だったり、他の教師のしてくれた楽しい話だったり、昔の自分の面白い話だったり。

たまに話が盛り上がりすぎて授業が進まなくて、チャイムがなった瞬間、はっとしてその後しょんぼりする浅野を見るのも楽しかった。

「ねー美波ちゃん」

ある日の授業の後、廊下から3年の先輩たちが、お!美波ちゃーん!と呼んで手を振るのを見て、いつの間にか自分のクラスでも浅野は美波ちゃんと呼ばれるようになっていた。でも、俺はいまだに美波ちゃんと呼んだことはない。なんだか気恥ずかしいし、タイミングを逃してしまった。

「その死刑の次に重い刑ってどんななの?宮刑?今でいう無期懲役みたいなもの?」

日野が尋ねると、浅野は少し考えるみたいに窓の外を見つめて、こちらに視線を戻す。

「無期懲役もかなりつらいけど、宮刑は男の人にとってはかなり屈辱的な刑だよ。それでも聞きたい?」

「え、なになに、余計気になるんですけど!」

クラスが盛り上がる。

「・・・男にとって大切な・・・アレを、もってかれる。」

聞いた瞬間、背筋が冷えた。きっと男ならみんなアレが縮こまるはずだ。

「え・・・どうやって・・・?」

多分あれを縮こまらせながらも、日野が果敢に質問する。

「あー色々方法があったらしいけど、詳しくは説明できない、またちゃんと調べておく。」

「やだー、えっちー」

日野が気持ち悪い声を出して言うと、みんな笑う。浅野はアホか、という顔で日野を見ている。

「いやーでもさ、ノコギリとかだったらエグくない?!俺、それなら一思いに斧とかがいい!」

サッカー部の井上が苦いものをたべたような顔で言う。井上もよく一緒につるんでいる中の一人だ。いや、ノコギリはやべーよ、と思いながら。またアレが縮こまった。

「お前斧とか必要ないっしょ!ハサミぐらいでよくない?」

「いや、それはひでー!ならお前とかクワガタ捕まえてきてやるよ!」

クワガタで俺のアレはきれないだろ!、いや、サイズ感だろ!とかいうあほな言い争いに、俺も含めて男子は大爆笑だ。ちらりと周りを見ると、女子たちは少しうつむきながら、恥ずかしそうにしながら、でも笑いをこらえているのがわかる。このあまりに面白い状況で、下ネタだからという理由で大爆笑できない女子は少しかわいそうだなと思った。

そんな中、浅野は最初困り顔だったが、話がエスカレートしていく中で、教卓に手をついて下を向いて小刻みに震えている。最初どうしたのかと心配になって、その次に女の人だから恥じらって笑っているのを隠しているのかと思って様子をうかがっていると、どうやらツボに入って声を出さず笑っていたらしい。次に顔を上げたときには、赤い顔で涙目だった。

「ひー!くるしいっ・・・あー・・・苦しかった!さすがにクワガタは無理でしょーよ。ツボだったけど!ほんとあんたらね、女子のことも考えてそんなの話しなさいよ、もーあーくるし。」

ツボだったのはクワガタだったようだ。

でも、さすがに24歳、性格もあるだろうが、この程度の下ネタは笑い飛ばしてしまう。経験豊富なのかな、なんてくだらないことを考えて、目尻にたまった涙を指で拭う白くて細い浅野の指に見惚れた。
< 4 / 7 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop