ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
ドビュッシーの「月の光」ラストの追いたてられるような高音にはハルの情熱が溢れていた。

ラストの音が部屋に反響して響き渡ると、僕の瞳を見上げた。

「死ぬために生きてるって言ってた・・。
美桜は生きてるのに、先の人生に期待していない。だから僕はいつか彼女を檻から出してやりたい。」

僕は心底驚いた。

兄である僕ですら聞いた事のない彼女の本音を、ハルには話していたことに。

「そうか・・。なら僕も迷わない。
あそこに彼女だけ置いて出て行けないからな、・・出るときは一緒だ。」

ハルは嬉しそうに頷いた。

「約束だ、聖人。彼女の人生も、お前の人生もお前達自身の物だ。
何があっても諦めちゃ駄目だ。」

「うん。君は凄いな・・。そんなに好きなんだ、美桜のこと。」

「そんなんじゃない、ただ助けてあげたいだけだ。・・多分。」

他人に全く興味なさそうなハルが、美桜の事だけ助けてあげたいと思っている。

それだけ特別な人なのに、気づいてない鈍感さに少し可笑しくなる。

「そうか?君は美桜の話をする時、いつも口元が緩む。海も美桜が好きだぞ・・。ライバルだな。」

その言葉に眉をピクリと動かしたハルは、止まっていた指が動き出す。

切ない情熱が迸るようなドビュッシーの「アラベスク」を奏でだした。

「あいつじゃ無理だ・・。美桜の孤独に気付いていなければ「山科」に飲まれる。」

伏せた瞳は揺れていた。

気づいていない、自分の熱い気持ちがその音に溢れていた事に気づかないハルに笑った。

「アラベスクは、美桜が好きな曲だな・・。
この曲を聴きながら、図鑑を読んでる。
あいつは違う世界を空想をしては、嬉しそうに微笑んでるんだ。
いつか檻から出た彼女を、その先の本当の世界に君が連れて行ってやってくれ・・。」

返事はなかった。

だけど、僕はわかっていた。

彼なら美桜をいつか「山科」の檻から出してあげる事が出来るのではないかと・・。



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