ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。

急いで大人になろうとしたせいで、肝心の部分が育ってないと思う時がある。

「やっぱり言い過ぎたのか・・。
なんでこう上手く気持ちを伝えられないんだろう。」

リビングには大きなグランドピアノが置いてあった。

朝の風景を思い出して落ち着かなくなった慧は、ピアノの蓋を開けカバーをゆっくりと外す。

ドの音を叩くと、ポーンと軽い音が部屋中に響く。

久しぶりにピアノを弾き出すと、少しだけ心が軽くなった。

滑るように奏でられるピアノの音色に聞き入って、違う世界に自分が入り込んだような心地がする。

「違う世界に行く為の羽が欲しいとよく言っていたな。
人は生きる為に現実が辛いときは空想や、何か没頭出来るモノに逃げ込む。
そこに僅かな瞬間でも救いがあるなら。
・・・彼女の気持ちが少しだけ、理解出来た。」

笑顔を取り戻した慧の指は動きを止めない。

彼女と会わなければ知らなかった感情は、数えきれない程あった。

生きている実感に溢れた今は、慧にとっては些細な喧嘩でも幸せだった。

窓の外は一面に宝石のような東京の夜景が見下ろせる暗い部屋の中、天上のような美しい音楽が奏でられていた。

宵闇の部屋をピアノの切なく、それでいて繊細で精工な機械のように譜面通りの音が響き渡る。

パチッ。

部屋に明かりが灯り、指先が照らされた。

「・・・嘘?
自動演奏かと思った。今の慧が弾いていたの?」

急に音楽は止まり、ピアノから顔を上げた慧は苦笑いをしながら帰宅した美桜を見上げた。
私は、自動演奏並みの腕前に唸りを上げて慧を恨みがましく見ていた。

クスっと笑った彼は、切れ長の綺麗な瞳で微笑む。

「ああ。天才はピアノも上手なんだ。
何度か弾けば譜面が頭に入って、譜面通りに弾ける。」

「へー・・。すんごい嫌味に聞こえるけど、事実だから何も言えないのが悔しいなー。
しかも、今の上級者が弾く幻想即興曲ね・・。」

「ドビュッシーも好きだけど、たまにショパンも弾くよ。飲み会もう終わったの?まだ22時だけど・・。思ってたよりも早い帰りで驚いた。」

私はバッグに入っていたミネラルウォーターを取り出して口に流し込む。

打ち上げ第二弾に参加して来た私は、少しお酒の入って血流が良い頬を赤く染めていた。

慧の顔を1秒でも早く見たかった。

心配してくれた慧に、素直に感謝出来ずに突っ掛かってしまう自分の幼さにヘコんでいた。
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