ご令嬢は天才外科医から全力で逃げたい。
朝の慧との喧嘩が気になって本当は、飲み会どころじゃなかった。

彼の寂しそうな横顔が何度も頭に過っては消えた。

私は早く慧の顔を見て安心したかったんだ。

「うん。最近色々あって疲れてたから、2時間ぐらい飲んだら眠くなっちゃった。
今日はタクシーで帰って来たのよ。」

ピアノを終おうとした慧を引き留めて、ドビュッシーを強請ると、慣れた手つきで私の大好きな「アラベスク」を奏で出す。

音の洪水が、耳に心地よい。

慧の人間性を現わすような、力強く繊細なドビュッシー・・・。

ドビュッシーは繊細であればあるほど、煌くような楽曲に仕上がる。

「慧の音、好きだな・・。なんだか懐かしくて、胸が震えるような音。」

ソファの上で目を閉じながら、慧のピアノに耳を傾ける。
心地よい、安心する音。

私を励ましてくれたあの日のピアノによく似ていて驚いた・・。

「そう?君のおねだりなら何でも聞いてあげたいけど、物は全然欲しがらないからな。
こんな物で君は喜ぶんだね。」

「十分よ。こんなに素敵な音、誰でも奏でられるものじゃないわ・・。悔しいけど音楽は天才ね!」

「初めて君に天才って言われた・・。嬉しいけど、外科医の腕でも、勉強でも料理でもなく、ピアノか・・。
ちょっと不満だな。」

「貴方は全部が凄いから・・。こちらの気が退けちゃうくらいね。そうだ。慧、今朝はごめんね・・心配してくれたのに大人げない態度を取っちゃって。」

「いや、俺が悪い。不安なんだって素直に君に伝えれば良かった・・。」

慧ほど、全てに恵まれていても不安はあるんだ・・。

私は、驚いて彼の横顔を見つめる。

ドビュッシーの生演奏を聴きながら、私はある事を思い出した。

自分に与えられた部屋へと入って行って、一冊の図鑑を取り出してリビングに戻る。

「私、子供の頃はよくドビュッシーを聞きながら家でこの図鑑を読んでいたの。懐かしいなぁ・・。」

ピアノを奏でながら、慧は図鑑を捲って目を輝かせている美桜を嬉しそうに眺める。

変わらない大きな瞳をイキイキと輝かせた彼女は美しい。

「あ、これだ・・。一番好きだった青い鳥!!・・・あれ?・・・何これ?」

一枚の封筒がそのページに挟まっていた。

私は急いでその封筒を開けると、その中に銀色にキラリと輝く冷たいものが入っていた。
チャリンと落ちたそれをゆっくりと拾い上げる。

「何これ・・?
何かの鍵だよね・・。こんなの私、挟んでないわ・・。」

驚いた私の元に、ピアノを弾くのを止めた慧が椅子から鋭い瞳を向けて見下ろしていた。
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