幸田、内緒だからな!
「失礼致します」

 わたしは逃げるようにその場を離れた。
 やっぱり直紀、あの人と結婚するんだ……

 トイレに駆け込む。
 こらえていた涙が、次から次へと頬を伝った。

 それから30分ほど経って、携帯に直紀からの着信があった。
 
「はい、早瀬です」

 もう涙は止まっていた。
 だけど、トイレの個室から立ち上がる事も出来ない。

『知花、お前どこにいるんだ? 次は松本商事だったよな?』

 受話器の向こうで、何事もなかったかのように仕事の話をする直紀。

「社長、申し訳ありませんが、早退させて下さい」
『えっ? どこか具合でも悪いのか?』
「はい、ちょっと吐き気がして」
『吐き気? 大丈夫なのか?』
「大丈夫です。しばらく休んで落ち着いたら帰ります」
『そうか。それじゃわたし一人で行って来る。その後のスケジュールについては誰か他の秘書に引き継いでおいてくれ』
「わかりました」
『もし明日も治らないようだったら、無理しなくていいからな。その時はまた連絡くれ』
「わかりました」

 電話が切れた。
 そしてわたしは一人になった。


 社長が出掛けて30分。
 わたしは三浦さんに後の事をお願いした。
 最初嫌な顔をしていた彼女も、社長秘書の経験者が他にいないという事を思い出したらしく、最後は引き受けてくれた。

「早瀬さん、一人で帰れる? 顔色が悪いわよ?」
「大丈夫です」
「だけど急ね。朝は元気そうに見えたのに。吐き気って、もしかしなくても妊娠ってわけじゃないわよね?」
「違いますよ。夕べあまり寝てないからかもしれません」
「そう? まあとにかくゆっくり休んで。もし明日も休むのであれば連絡してちょうだい。専務は別に放っておいても大丈夫だから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 三浦さんにわたしのスケジュール手帳のコピーを渡した。
 念の為、明後日までの予定を伝えてある。
 わたしは秘書。
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