今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「アリーナ様」

 落ち着いた声がアリーナの顔を上げさせる。
 立っていたのは片眼鏡が特徴的なアリーナの義父、セルジュであった。

「なっ、なんで、こんなところに」

 慌てて目を擦る。余計に目が腫れただけだったので、アリーナは不貞腐れてセルジュから顔を背けた。

「陛下に城の留守を任されているので長居はできませんが、もう今しかないと思いました。アリーナ様。ひとつ、昔話を聞いてくれませんか」

「……昔話……?」

 突然何を、今じゃなければいけないのか、とアリーナが声を低くしたのには気がついただろうが、彼は気にした風もなく首を縦に振った。

「あるところに、美しい女の吸血鬼がいました。彼女は身分の高い貴族の男に見初められ、寵愛を受けました。最初は身勝手だと憤っていた吸血鬼も、そのうち男を愛するようになりました。
ところが、男には人間の妻がいました。吸血鬼はあくまで愛人でしかなかった。男は面倒事になりそうだと察するや、吸血鬼を捨てようとしたのです……子供まで産ませておいて」

 どこかで聞いたような話だ、とアリーナは記憶を探って、思い至る。
 そうだ。カディスの話を知りたいと言った時にセルジュが話したシレスティア侯爵家の話によく似ているのだ。

「それでも吸血鬼は男を愛していました」

 セルジュの声は、淡々として、酷く乾いていた。

「吸血鬼は男の気を惹くために、何度も何度も魅了の力を使いました。しかしそれには、吸血鬼自身の命を削る必要がありました。力を使い続けた吸血鬼は、あっさりと死んでしまったのです。そしてまだ幼かった子供は初めから居なかったものとされ、下町に棄てられました」

「な……」

 言葉を失ったアリーナの目の前で、あのいつもどこかへらへらとしたセルジュが、ぶるぶると激しく肩を震わせた。

「助かる方法があったのに。私を愛してくれれば──それだけで貴女は死なずに済んだのに」

 それでわかってしまった。これはただの昔話なんかではなく、彼の追憶であることを。

「あの時も、話が具体的過ぎるとは思ったんです。……全部、自分で見たことだったからなんですね。
セルジュさん、あなたは。彼女のことを──」

「好いていた? いいえ、愛していた」
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