今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
「それで話を逸らしたつもりか?」

「そ、んなつもりは……」

「まあ、そんなことはどうでもいい」

 ルグマの顔が近づいた。

「汝のどこがそんなに魅力的だったのだろうな、あれには」

 後ずさって、すぐに壁にぶつかる。

「身体か?」

 感情のこもっていない声で言って、アリーナの顎を掴む。
 ぞっと全身が総毛立って反射的に振り払う。ぱしん、と乾いた音がした。

「……へえ」

 にいっとルグマが唇だけで笑みを浮かべた。思いもよらぬ面白い玩具を見つけたような。

「俺に手をあげるとは、なかなか度胸のある奴だ」

 一人称が変わっている。今までと様子が違うことに気がついて逃げようとするが、ぐっと両肩をベッドに押さえ付けられた。

「な、なに、を」

「自分で確かめてみればいいことか」

 強い力で組み敷かれ、ばたばたと藻掻くが微塵も動かない。

「貧相な身体だな。正直あまりそそられないが」

 服の裾から手が入ってくるのがわかった。意味の無い抵抗とわかっていても必死に身をよじる。

「やだっ、やめて! やめてよ!」

「何だ、過剰な。まるで生娘のような」

 怪訝な顔をしたルグマが更に眉間に皺を寄せる。

「……まさか、本当にまだ手を出されてないのか? 思いの外大切にされているのか、それともやはりこれでは食指が動かなかったか」

「……」

 大きく顔を背けた。多分、どちらも違う。そもそも自分は手を出されるような立場ではないのだから。

「まあいい。……はっ、どちらにせよ少しは溜飲が下がるだろうからな」

「溜飲が、下がる?」

「この国は彼奴に幾度も苦渋を舐めさせられてきた。それに俺は、彼奴には私的な恨みもある」

 ぎりっと強くルグマが唇を噛む。鬼のように歪む顔は身が竦みそうなほどに恐ろしかったけれど、それをかき消すように湧き上がってきたのは怒りだった。
 力が緩んだ隙に、枕の下に手を入れる。

 直ぐに、ぴん、と鮮血が散った。

 アリーナの頬に、鋭利な赤い溝。

「……何をしている?」

「本気ですよという意思表示のつもりです。その気になればあなただって刺します。これでもナイフくらいは扱えるんです」

 アリーナは切っ先をルグマに突きつけた。

「あんたが馬鹿にしたララさん仕込みですよ。自分の体くらい自分で守れるように、って」

 ぶるぶると刃が震えて、窓から射し込む月明かりを跳ね返す。情けなかった。どれだけ力を入れようと止まらない。
 ルグマは避ける様子もなくそれを見つめて、肩を竦めた。

「自分を傷つけるのには躊躇がないくせに、他人にそれを向けるのは怖いのか」

 かあっと頭に血が昇る。馬鹿にされていると思ったからだ。
 ルグマは立ち上がると襟を正しながらナイフを向けたままのアリーナを見下ろした。

「麺麭などを土産だとほざいて持ってくるし、全く礼儀がなっていないし、気が強いくせに脆いのか。面倒な奴だな」

 くるりと背を向ける。

「もう良い。興が冷めた」

 それだけ言って、ルグマは部屋を出ていった。

 後に残されたアリーナはぼんやりとベッドの上に座っていた。頬が熱い。思ったより深く切ったようだと、そこら辺にあった布を適当に当てる。

 はだけた服を緩慢な手つきで直す。今更のようにがくがくと全身が震えて、強く自分を抱きしめた。
 もし、 ルグマの気が変わらなければ、今頃どうなっていたのだろう。アリーナにはそれは未知のことで、想像すらできないけれど。

 無性に、カディスの顔が見たくなった。あの熱に強く抱きしめられたいと思った。
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