不器用な僕たちの恋愛事情


「お兄ちゃんが言う通り、十玖を試したのかもしれない」

 ようやく落ち着きを取り戻した美空が、淡々と話し始めた。

 十玖は黙って耳を傾ける。

「意図してやったわけじゃないけど、結果的にはそうなった」

 本気で死にたいと思っていた。

 レイプされて、平気でいられる女性なんていない。

 最初は、事件のことが何度もフィードバックされ、恐怖ばかりを感じていた。

 やがて体の傷が癒えてくると、レイプ犯たちに激しい怒りを抱きながら、恐怖に慄く身体を傷付けずにいられない衝動にかられ、傷を付けながら、不本意とは言え十玖を裏切ってしまった自分を罵った。

 それが過ぎると、十玖に対して酷く申し訳なく、とてつもなく汚らしい自分を、この世から消してしまいたい、それしか考えることが出来なくなっていた。

 周りの声も音も耳に入ってこない虚無の世界だった。

 息をしてるだけの存在。

 無意識のまま屋上の縁に立っていた。

 ふらふらと、見るともなしに見ていた風景。

 そのまま吸い込まれるに任せた。

 手を取られ、抱きしめられ、落ちていく。

 わずか数秒の出来事。

 衝撃はなかった。

 十玖が身を呈して守ってくれたから。

 美空の無事を確認した十玖に涙が溢れた。

 小さく頷いた美空を見るや「よかった」と微笑んで意識を手放した十玖を、救急隊員たちがストレッチャーで運んでいくのを見て、長い悪夢から目覚め、初めて後悔した。

 身体がガタガタと震えた。

 救急隊員の手を借りて、エアマットから降りたところで、晴日が駆けつけ、生まれて初めて兄に叩かれ、号泣された。

 美空に異常はなく、十玖も意識はないものの脳波に異常はなかった。軽い打ち身と急激なストレスで一時的に気を失っただけだろうと、診断が下された。

 尤も詳しい検査は後日する事となっていたが。

「この度は済みませんでした。愚妹のせいで大変なご迷惑をお掛けしました」

 一緒に診断を聞いていた十玖の母 咲に深々と謝罪をした。

 後で両親と謝罪に行く、と言った晴日に咲はケラケラ笑った。

「やぁだ晴くん。気にしない気にしない。十玖生きてるし、女子は死ぬ気で守れがうちの家訓だから。彼女守って死んだら本望よ」

 頑丈だけが取り柄だからと付け足して、安心させるように晴日の肩に手を添えた。

 咲は続ける。

「もし仮に守れなかったら、私が制裁を下すけどね」

 くいっと首を切る真似をして、凶悪な顔をする咲に、二人は身震いをした。

 ここでまた美空が迂闊なことをしたら、十玖が本気で危なくなるかも知れない――――と思わせる。

「たとえ死んでも、豪勢な戒名とキンキラの位牌でもくれてやるから安心してね?」

 二人はにっこり笑った咲に、そういう問題か? と突っ込みたいのを我慢して、寝ている十玖に憐憫の眼差しを送った。

 もちろん晴日たちを安心させるための軽口なのはわかってる。

 病院に駆けつけた時の顔色は蒼白だった。

 本当なら、なぜ美空が飛び降りを図ったのか知りたいはずなのに、その事に一切触れもせず、十玖の頭を撫で、安心した笑みを浮かべていた。

 大事な息子を危険な状況に追い込んだ美空を詰りもしない。

 かえって胸が詰まった。

 咲は、すっと切り替える。

「そろそろ行くわね。家のこと放っぽり出して来ちゃったから」

 そう言って、さくさくと帰り支度をして去ってしまった咲の背中を見送りながら、晴日は美空に告げた。

「美空」
「なに?」
「不本意ながら、お前に罰を与える」
「…………慎んで、お受けいたします」

 それでプレートを首に掛けて、病院を歩く羽目になった。



 十玖はため息を漏らし、頭を掻きながら言う。

「母さん、僕にはか~な~り、査定厳しいから、真に受けなくていいからね。こんな事で美空が恥かくことないし」
「あたしの場合は自業自得だから。でもなんで十玖の査定が厳しいの?」
「それは…僕が男だったから……」

 ふっと遠い目をする。

 美空には、十玖が男なのと査定の関係性が分からない。

 ここに晴日たちがいたらすぐにピンときただろう。

「意味わかんないんだけど?」
「図らずも母の期待を大きく裏切ったってこと」
「期待? 何の?」
「そのうち分かるよ」
「何それ?」

 複雑な笑みを浮かべて十玖は何も答えない。美空もそれ以上聞かない。

 何もなかったように軽口を利いていて、切なくなってくる。

 同じようでいて、違う自分。

 また涙が溢れてきた。

「美空?」
「……初めては、十玖にあげたかったのに、ごめんね」

 体を小さくして泣く美空に手を伸ばしかけて、止めた。拳を握り、もう一方の手で包み込み、額に押し当てた。

 時折、犯人たちを殺したい衝動に駆られる。

 この殺意で美空を怖がらせないように、平静を保つのが辛くなる時がある。

 連中が美空を傷つけていい理由なんてなかった。

 それは自分も同じか……。

「美空は悪くない。僕の方こそ、美空が苦しむとわかっていながら、手放せなくてごめん」

 自嘲して、重いため息をつく十玖を、美空は精一杯の勇気を振り絞って、抱きしめた。

 十玖は驚いて、震えながらそれでも必死に抱きつく美空を見下ろし、ふわりと包むように彼女を抱き寄せる。美空の髪に頬を寄せた。

「どんな美空でも好きだよ」
「……うん」

 か細く応えた美空が切なくて愛しくて、知らず涙が零れた。


 *


 八月三週目の水曜日。

 外はギラギラのお天気で、エアコンの利いた室内から出るには勇気が必要だ。

 折角の夏休みを、机に向かって過ごしている毎日に、萌はうんざりしていた。

 十玖との楽しい夏休みを(勝手に)予定していたにも拘わらず、その予定は綺麗さっぱりないものとなってしまった。

 その代わり、日替わり家庭教師がやってくる。

 A・Dのライヴに行く交換条件として、しっかり受験勉強をすると母や十玖と約束した。

 ライヴは無くなってしまったのに、交換条件は生きていた。

 受験生なのだから当然か。

 萌がライヴに来る責任の一端を担う者として、彼らは家庭教師を買って出た。

 補導騒ぎで煩わされたくないというのが、本音ではあるが。

 十玖曰く、見かけによらず頭の出来が極めて宜しい三人組が、萌の家庭教師だ。

 謙人は、私立の進学校でいつも上位に入っているし、竜助と晴日もトップ5の常連ときてる。三人とも萌相手では復習にもならない、レベルの高い頭を持っているから、萌の母は両手放しで喜んでいる。

 忙しい時間を縫って、しかも無料で教えに来てくれる面子を見れば、この上なく贅沢な話だ。

 A・Dファンの嫉妬で、呪い殺されても本望かもと思ってしまう、何とも言えぬ優越感。

 その反面、十玖にも教えて欲しかったと言うのが本音ではある。

 美空の一件がなければ、十玖にも教えてもらえるはずだった。

 あの事件は、同じ女として胸が詰まる思いだ。

 あんなに泣き喚き、口汚い言葉で犯人を罵る十玖を見るのは、胸がはち切れそうだった。

 いつも穏やかな十玖の激情に触れ、美空への想いの深さを知った。

 二人はきっと続かない――――そう願ってるのに、乗り越えて欲しいとも願う矛盾。

 自分には決して向けられる事のない愛情だけれど、ツラそうな十玖を見る方がもっと嫌だった。

「もえ~来たぞぉ」

 ノックと同時にドアが開いて、晴日が入って来た。

 十四時十分前。

「おーっ。ちゃんと予習してたか。偉い偉い」

 頭をグリグリ捏ね回されて、萌はふくれっ面で晴日を睨む。

「すごいバカにされてる気分」
「バカにしてるんじゃない。実際バカだろ。本気でウチ入ろうとしてるなら、まだまだ足んねーし」
「うっわ。ムカつくーっ!」
「ムカつく暇があったらさっさと始めるぞ」

 晴日は、存外スパルタ教師だった。

余談だが、美空も晴日のスパルタに泣かされたクチだ。萌ほど酷くはなかったが。

因みに謙人は優しい振る舞いでさり気なく胸を抉りつつ、ポイントはしっかり抑えてる。竜助は終始仏頂面でぶっきらぼうだが、懇切丁寧に教えてくれる。

一番教師に向いてるのは、意外にも竜助かも知れない。

「ねえ晴さん。今日もとーくちゃん行ってるんだよね?」
「ああ」
「美空さん容態はどう?」
「まだたまに情緒不安定になるけど、十玖のお陰で大分いいよ。もうすぐ退院できそうだ」

なにかの拍子に思い出して、錯乱状態になることがあるが、時間は短くなっている。

飛び降り自殺未遂から、外界に意識を向けるようになった。それだって十玖の存在がなければ、難しかっただろう。

十玖が美空を庇って一緒に飛び降りたと聞いた時は、肝が冷える思いだった。

「やっぱ、とーくちゃんていい男だわ」
「そだな。十玖には頭上がんないわ」
「萌にもそんな人出来るかなぁ」
「出来んじゃね。わからんけど」
「適当だな~」

萌の中で、十玖が一番なのはきっとこの先も変わらない。

でも今までのような子供じみた嫉妬で、美空に絡むことはないだろう。

晴日がむにっと萌の頬を抓む。

「ほら。脱線してないで、始めるぞ。俺たちが教えて不合格は有り得ないからな」
「わかってるよ。絶対に合格するんだからっ!!」

気を引き締めて、参考書に向き直った。

数式を見た瞬間、萎えそうになる。しかし弱音を吐いたら隣の暴君にコテンパンにやられる事は学習した。

えへへ、と愛想笑いをする萌に、頬杖をついた晴日は、嫌味な笑顔で返すのだった。

 
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