不器用な僕たちの恋愛事情
病室には、一足先に謙人が来ていた。
「おう。お疲れ~」
赤毛のストレートヘアは肩先まであり、人好きのする、やや垂れ目がちの好青年風の謙人が、手をひらひらさせて、三人に笑いかける。
「おっつー。涼、来たぞぉ。美空も一緒だ、嬉しかろう」
「気が利くなあ。ヤローばかりじゃ心が萎むとこだった」
カスカスの声で、目いっぱい明るく振舞う涼。
リクライニングに背を預けて、病院衣に身を包んではいるものの、精悍な面立ちは、同性でもカッコイイと思わざる得ない。そこに笑いジワが刻まれると、つい気を許してしまうのだ。
A・Dのツートップは、自他ともに認める “人たらし” だった。
「で、おまえら全員手ぶらか?」
わざとらしく手荷物チェックをして見せる涼は、いたずらっ子のように目を輝かせる。
「俺、美空連れてきたじゃん」
「随分安上がりだな」
「失敬な。斉木家の宝だぞっ」
「じゃ、置いてってくれんのか?」
「いや無理」
大真面目にいう晴日に、涼の空元気の笑い声が切ない。
晴日に「バッカじゃないの」と悪態をつきながら、美空はカバンから封筒を取り出し、涼に手渡した。
「リクエストの最後のライヴ写真だよ」
他にも楽屋での光景、帰り道の光景を写真に収めていた。
美空は、晴日が加入して間もなくから、こうして素のA・Dを写真に収める記録係を担っていて、最近では、CDのジャケットも撮らせて貰えるようになった。
「いい男に見えるように、ちょっと修正入れといたから」
「何だとお? お姫、ここにお座り」
自分の隣をパンパンと叩くと、美空も素直に腰掛けながら、
「ははは。嘘だよ。涼ちゃんは素でカッコいいよ」
「素直でよろしい」
と、美空の頭をワシャワシャと掻き混ぜた。
美空は、「もおっ」と膨れながら乱れた髪を直すが、瞳は微かに揺れている。
「これ。姉貴からお守り預かって来た。あとこっちは俺から」
竜助が、神社の白い小袋と本屋の買い物袋を差し出すと、涼は「サンキュ」と受け取った。
「ナオさんの結婚式で歌う約束、守れなくてゴメンて伝えてくれるか?」
「伝えるけど、気にしなくていいよ」
「……ん」
涼が寂しげに微笑む。
如美の結婚が決まった頃から、何度も念押しされていたのに、土壇場で約束を反古にするなんて、想像していなかった。
もう歌うどころか、会話することも適わなくなる現実を前に、らしくもない弱音が漏れた。
「歌いてぇ」
気休めにしかならない言葉は言いたくなかった。
涼もそんな陳腐な言葉なんか望んじゃいない。
死ぬまで歌い続けると言い切って、最初は手術を拒んでいた。
涼にとって、歌えないのは、死ぬより辛い選択だったから。
思い直させたのは、涼の三歳上の恋人。
病気が発覚し、それでも我を通そうとした涼は、二年付き合った恋人に別れを切り出した。しかし彼女はとんでもない隠し球を持っていた。
二人共まだ若く、涼に至っては、十八歳になったもののまだ学生で、メジャーデビューの話も持ち上がっていた矢先だったから、彼女は告白するのを躊躇っていた。
しかし状況は変わった。
生きていて欲しい、自分と新しく生まれてくる生命のために、何もせずにこのまま死なせてなんかやらないと、体を張って泣いた恋人。
二人は入籍し、恋人は涼の実家で暮らしている。
ここで待っているから生きて帰って来い、と言う彼女の意思表示。
女ってつえーよな、くしゃくしゃの顔して泣いた涼。
この選択に、後悔はしてない。
それでもやっぱり、寂しさと辛さは隠せない。
謙人が涼の肩を抱く。
塞き止めていたものが決壊したような嗚咽が、病室に溢れた。
*
三週目金曜日。放課後。
晴日の無言の圧力を受け始めて、早一週間。
十玖はようやく平常心を取り戻していた。
最初の頃、彼の中のカオスは、クラスメートをビビらせた。
晴日が教室を立ち退いた瞬間、脈絡もなく、自分の右頬に渾身の拳を見舞った十玖は、切れた口の中を舌で確かめ、それきり苑子の問い掛けにも無反応。
また、急に赤くなったと思えば、今度は青ざめて、机に突っ伏し微動だにしなくなる。
かと思えば、急に声を張り上げてみたり、シャープペンを立て続けに何本か昇天させてみたり、無言で黒板を見つめて、教師を震え上がらせたりと、リミッター解除状態の十玖は危険とされていた。
これだけの感情の起伏は、十玖人生、初の珍事であった。
そしてまた、晴日はやって来た。
教室の前側の出入り口で、笑った。にやりと。
次の瞬間、晴日は十玖に向かって走り出した。
十玖の右斜め前方二メートル。晴日は床を蹴って机に飛び乗り、右足を高々と繰り出した。十玖は躱そうと、椅子ごとひっくり返り、つんざく悲鳴は、すぐに感嘆の声に変わった。
軽々と後転し、すっと直立している。恐るべき身体能力。
晴日の間髪入れない、拳と蹴りの乱打をヒラリヒラリと躱し、ガラ空きになった晴日の鳩尾に、躊躇ない拳がめり込んだ。そして我に返る。
「すみません。寸止め忘れてました」
崩れていく晴日に向かって、茫然の体で言った。
息のできない晴日が、その場にうずくまる。
愕然としていた教室は、すぐに蜂の巣をつついた騒ぎになった。
「ちょっとお兄ちゃん!?」
「とーくっ!!」
美空と苑子の叫びが同時に谺する。
美空は晴日に駆け寄って介抱するが、苑子は十玖の左頬に平手を見舞った。
その場に居合わせた全員が、豆鉄砲を食らったような顔で、二人のやり取りを見守る。
「バカとーく! 素人さん相手にダメでしょっ!?」
「……うん」
小さくうなだれた十玖の頭にもう一発見舞って、苑子は晴日に向き直る。
「斉木先輩。何考えてとーくに攻撃してきたか知りませんけど、病院送りになる前に止めてください。スイッチ入ったら切れるまで、手出し不可能なんで、周りが迷惑です。お願いします」
ふわふわした綿菓子みたいな女の子の、有無を言わせぬ迫力に、晴日は固唾を飲んで頷いた。
「も、申し訳ない」
茫然自失の体で、謝罪の言葉が飛び出す。
「もう終わった感じ?」
今更、のこのこやって来た竜助は、座り込んでる晴日を見て、にやりと笑う。
「晴ダメじゃん」
「うるせー」
「自分で言ってたんだろ。三嶋は絶対強いって。詰めが甘いからヤられるんだよ」
つかつかと晴日に歩み寄り、腕を引っ張り上げる。
「ヤバいね~。死守できるのかね~」
「やかましい」
いまいち状況が飲み込めない十玖は、晴日と竜助を唖然と眺めてる。
飄々とした笑みを浮かべる竜助は、十玖の肩にポンと手を置いた。
「悪かったね。うちの暴れん坊将軍が――――ってかおまえ何やってんの!?」
竜助が話している途中で、晴日はいきなり十玖の服を捲くり上げた。
呆然と晴日にされるままの十玖。
女子の嬌声。
マジマジと見入る晴日の腕を、穴があったら入りたいと言わんばかりの美空が引っ張る。そんな美空をものともせず、
「すっげぇシックスパック。何やってる?」
と言いながら、今度は背後に回って、更に上まで捲り上げた。
「広背筋も僧帽筋もすっげぇ綺麗なつき方してんな。体脂肪なんぼ?」
と更にエスカレートしていき、ぺたぺたとあちこち触りまくる。
十玖がだんだん青褪めていくのが見て取れて、美空まで青くなってきた。
「お兄ちゃん。いい加減にして」
「お前はゲイの痴漢か」
二人に引き剥がされて渋々離れたが、まだ名残惜しそうな晴日に、十玖は身震いした。
何か大切なものを失ったような気がする。
「誤解がないように言っておくが、俺は筋肉フェチなだけで、男は専門外だから」
「さんざん触りまくって、説得力ねえだろうが」
と竜助が晴日を小突き、
「お兄ちゃんのバカ~っ!」
と美空は半べそを掻きながら、荷物を取って教室から走り去ってしまった。
「あの~」
それまで遠巻きに見ていた太一だった。
乱れまくった十玖に一瞥をくれ、晴日と竜助に会釈する。
「そろそろ部活に行きたいんで、十玖を開放してもらってもいいですか?」
「わりぃわりぃ。んで、なに部?」
「合唱ですけど」
晴日に深い意味はなかったのだが、太一の次の言葉で様相が変わった。
晴日の目が光ったような気がして、十玖は後退る。そして嫌な予感ほど、よく当たる。
ニコニコと、一見人当たりの良い笑みだが、裏に思惑を感じる。
そして馴れ馴れしく十玖の肩に腕を回し、有無を言わせない眼差しを向けた。
「見学してもいいよな?」
拒否したところで、晴日が十玖の言う事を聞くとも思えない。
十玖は早々に観念した。
「……どうぞ」
「ありがとう」
満面の笑み。
竜助はやれやれと溜息をつき、太一と苑子は、十玖が面白いことになってるのが、やたら楽しそうだ。
そして十玖は事の展開についていけず、フラフラと歩き出した。
赤面が引かぬまま、美空は地下鉄のホームで電車を待っていた。
思い出したくもないのに、先ほどのことが脳裏から離れてくれない。
穴を掘って埋まりたい――――とまで思ったのは初めてだ。
晴日の所業が、心底恥ずかしいと思った。
これまでも思いつきで行動して、恥ずかしいと思ったことはあったが、今日のはあんまりだ。
(気まずい事にかけてはナンバーワンの、あのっ、三嶋を相手に何してくれちゃってるんだ。バカ兄っ!)
十玖に関心を示していたのは気付いていたが、何をやりたいんだか皆目見当もつかない。
実際、眼タレに日参し、ついにケンカを売ったと思ったら、急にまとわりついて、十玖を困惑させていた。
確かに、晴日は筋肉フェチで、自分も筋トレしてはいる。
自分より強い相手の筋肉が、純粋に気になっただけなんだろうけど、まくり上げなくてもいいと思う。
間違いなく、女子たちの目の保養にはなったようであるが。
(あたしなんて近くでガン見しちゃったけどね)
パンイチの男ども(父兄とA・Dメンバーだが)を見慣れているせいか、上半身くらいこれっぽっちも恥かしいと思わないが、兄のやらかした事の方がよっぽど恥ずかしい。
子供の頃から、ケンカした相手でも自分のペースに巻き込んで、すぐ友達になってしまう特技はあるが、何故いまその相手が十玖なのか。
美空が十玖を気まずいと思ってることも、その経緯も知らないとは言え、何故わざわざ十玖に絡むのか。そして、十玖も何故、兄に敵愾心を見せたのか。
(関わりたくないのに)
晴日にずっと翻弄されっぱなしだった十玖を思い出す。
(ほんとに強かったな)
一方的であったが、兄の予言通り十玖は強かった。ケンカが強いのとは別次元で。
ケンカなら晴日も強い。
美空に近付く男子を尽く追い払ってきたのだから。
(橘さんも強かった)
兄が強いと言った十玖に平手打ちを二度もカマしていたのだから、最強かも知れない。
そこに二人の歴史を感じた瞬間、胸がモヤモヤした。
十玖に無視された時にも感じた不快感。
(なんだってのよ、あの男っ。ほんとムカつく)